南北和議とは? わかりやすく解説

南北和議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/06 15:54 UTC 版)

南北和議代表団。左から唐紹儀、イギリス商人リトル、伍廷芳

南北和議(なんぼくわぎ)とは、革命等により、一国内で政権が分裂している状態において、南の政府と北の政府が和議を行うこと、またその結果、和議が成立した状態をいう。いろいろなケースで使いうる言葉であるが、ここでは、中国の辛亥革命後の南北和議について述べる。

辛亥革命における「南北和議」

南北和議(なんぼくわぎ)とは、辛亥革命後、孫文臨時大総統とする南京中華民国臨時政府と、北京清朝との間で行われた、調整・政権統一のための交渉およびその結果としての和議のこと。「南北議和」「南北講和」「南北妥協」「南北停戦」「孫袁提携」などと呼ばれることもある。南北和議は、南側による北伐(広西北伐軍、広東北伐軍、上海北伐軍、福建北伐軍など)と平行して行われたこともあり、その始点と終点は、必ずしも明確ではない。

清朝側の代表者は主として袁世凱とその部下の唐紹儀であったが、中華民国側の代表は、伍廷芳汪兆銘黄興宋教仁らと、入り乱れ、袁世凱に対してある程度の妥協せねば立ち行かないという1点においては共通の認識があったが、必ずしも足並みが揃わず、また、財政的にも革命政権側に限界が生じていた。そのため、最終的には、革命側の中では、袁世凱の立場とも近接性のある、張謇らのいわゆる立憲派が主導権を握り、革命側にとっては、かなり妥協的な内容の和議となった。和議の主たる内容は、以下のとおりである。

  1. 宣統帝退位し、清朝を終焉させる
  2. 臨時大総統の地位を孫文から袁世凱へ移譲する
  3. 政府は南京におき(首都を南京にし)、変更できない
  4. 新総統は南京で就任する(それが、孫文辞任の条件)
  5. (臨時)約法を制定する
  6. 新総統は約法(およびそれに基づく法律)に拘束される(約法遵守を誓約する)
  7. 国会を開設する

和議の結果、「南北統一がなされた」、という言い方をすることもある。

しかも、袁世凱はこれらのうち、第3点、第4点、第6点については、きちんと遵守することはなかった。

関連年表

  • 1911年10月10日 - 武昌蜂起(武昌起義・新軍蜂起)
  • 10月11日 - 革命軍、武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を占領→湖北軍政府成立(黎元洪が、都督に正式に就任したのは10月16日)
  • 10月12日 - 孫文は、アメリカ・コロラド州デンバーにて、武昌蜂起を知る(新聞にて)
  • 10月末 - すでに和平準備会の交渉が進行していたとも
  • 10月末?11月初め? - 清朝、憲法信条19か条発布
  • 11月1日?7日?10日? - 袁世凱を総理大臣に任命
  • 11月4日 - 上海独立
  • 11月7日 - 清朝の刺客により、呉禄貞、暗殺さる
  • 11月15日 - 各省都督府代表聯合会(連合会)(上海)→11月30日には一部を残して武昌へ移転
  • 11月15日 - 汪兆銘は、楊度とともに、国事共済会を結成し、南北和議を目指して唐紹儀に接触(←汪は、11月6日に、牢獄から釈放となって、北京にとどまっていた)
  • 11月16日 - 袁世凱内閣成立
  • 11月27日 - 漢口に続いて、馮国璋、漢陽を革命側から取り戻す
  • 11月30日 - 漢口にて停戦(休戦)和議成立←11月29日 - 漢口英総領事の斡旋
  • 12月初 - 汪、李石曽と京津同志会(天津)を結成し、和議に向けて動く
  • 12月2日 - 革命軍、南京を占領→首都を南京とする
  • 12月3日 - 中華民国臨時政府組織大綱公布(武昌)
  • 12月3日 - 武昌の代表会は、革命派につくことを条件に、袁世凱を臨時大総統に推挙することを決定
  • 12月4日 - 上海に残っていた代表者たちは、大元帥に黄興、副元帥に黎元洪を選出(上海)→2人とも辞退
  • 12月7日 - 清朝は、袁世凱に南北交渉の全権を委任
  • 12月中旬 - 臨時政府、南京へ移転
  • 12月17日 - 唐紹儀、媾和使として上海着
  • 12月18日 - 和平代表団(総代表(団長)は唐紹儀と伍廷芳)の第1回会合(上海)
    • 清朝側団員 - 楊士琦・厳修
    • 清朝側顧問 - 楊度・魏宸組・汪精衛
    • 革命側団員 - 汪精衛、李燮和ら7名
  • 12月20日 - 段祺瑞と黄興の非公式和平交渉(南京)、五項目協定締結
  • 12月20日 - 和平代表団の第2回会合(上海)
  • 12月25日 - 孫文、上海に到着(21日には香港入り←15日にはシンガポール着←マルセイユ(11月24日発)←パリ着(11月21日)←ロンドンニューヨーク←10月5日シカゴ発)
  • 12月28日 - 隆裕皇太后の勅令(国民会議召集を承認)
  • 12月29日 - 各省代表会(議)(十七省代表)による大総統選挙、孫文選出(南京)
  • 1912年1月1日 - 中華民国成立(南京。孫文が臨時大総統に就任)。南京臨時政府とも呼ぶことがある。
  • 1月1日 - 和平代表団の第3回会合(上海)→加えて、以降2回の会合あり
  • 1月2日 - 袁、和平代表団から唐紹儀を辞職させた
  • 1月3日 - 中華民国で9人の総長が選任され、中央政府が成立。黎元洪、副総統に就任
  • 1月8日 - 国民会議開催
  • 1月16日 - 袁世凱暗殺未遂事件(革命派の張先培ら)
  • 1月16日 - 袁世凱内閣から皇帝一族への上奏文提出(退位の請願)
  • 1月17日 - 御前会議
  • 1月22日 - 中国同盟会、大会開催(南京)
  • 1月26日 - 袁、一統公爵の称号を受ける
  • 1月26日 - 袁世凱、部下に、清朝に対する共和制を求める電報を打たせる(北洋軍人46名連署による譲位勧告?)
  • 1月27日 - 良弼(立憲君主派)、爆殺さる(彭家珍による。袁世凱の差し金か? - なお、撃たれたのは26日)
  • 1月28日 - 南京にて臨時参議院(立法機関)成立(議長・林森)し、各省代表会に代わった(ただし、各省代評会は、1月17日まで)
  • 1月30日 - 最後の御前会議で、共和国樹立の宣言(詔勅・勅令)の決定
  • 1月31日 - 中華民国臨時約法起草
  • 2月5日 - 袁世凱、部下に、清朝に対する共和制を求める電報を打たせる(2回目)
  • 2月12日 - 宣統帝溥儀が退位・清朝滅亡
  • 2月13日 - 孫文は、臨時参議院に辞職の申出、また、袁世凱を後継者に推薦(同時に三条件、上記第3点、第4点、第6点)
  • 2月14日 - 臨時参議院は孫文の辞任を承認
  • 2月15日 - 臨時参議院が袁世凱を臨時大総統に選出(満場一致)
  • 2月18日 - 袁世凱を南京に迎えるため、孫文は、蔡元培、宋教仁、劉冠雄王正廷、汪精衛を北京に派遣(「迎袁特使」)
  • 2月29日 - 袁世凱の差し金で、北京で兵変曹錕による、袁世凱南下要求に反対する反乱)、他に、保定、天津、通州石家荘などでも同様に。→袁世凱、南下を拒否
  • 3月3日 - 中国同盟会大会(南京)→革命結社から公開政党への転身
  • 3月6日 - 南(参議院)北とも、袁世凱が南下しないことを受諾
  • 3月10日 - 袁世凱、臨時大総統就任の宣言(北京)。副総統・黎元洪
  • 3月11日 - 臨時約法を公布(発布)(「臨時大総統・孫文」の名で)
  • 3月13日 - 臨時参議院、唐紹儀の国務総理任命を承認
  • 3月23日 - 袁世凱は、唐紹儀を国務総理に任命
  • 3月30日または29日 - 唐紹儀内閣成立
  • 4月1日 - 孫文、正式に辞任
  • 4月2日 - 臨時参議院は臨時政府の北京移転を決定
  • 4月中 - 臨時政府、南京から北京に移転(北遷)
  • 8月24日 - 孫文と黄興は北京入り。袁世凱や趙秉鈞を国民党に加盟させるべく、話し合いを持ったが、後者についてのみ成功した。
  • 8月25日 - 国民党成立

和議の始点については、10月末、11月15日、11月29日、12月18日などの考え方があり、和議の終点については、1月30日、2月12日、3月10日、8月などの考え方がある。(それぞれの日付の意味については、年表を参照)


南北和議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「南北和議」の解説

中華民国成立したものの、戦力不足のため清朝政府打倒するまでには至らなかった。一方清朝の側も帰趨定まらない北洋軍閥巨頭袁世凱再出馬を請うまでに追い詰められており、両者の対立膠着状態に陥った。ここで、袁世凱が、まだ幼少であった宣統帝溥儀退位させ、その代償として孫文に代わって袁世凱臨時大総統職に就任するという奇策浮上した。この奇策実現一役買ったのが汪兆銘であった。 汪は出獄後袁世凱腹心楊度国事共済会を組織し、袁の子袁克定中国語版)とも接触し、南北和議における南方委員となって孫文代理として両者連携画策し秘密裏協議重ねた彼の暗躍もあって南北和議の密約成立2月には袁世凱圧力のもと宣統帝退位し清朝崩壊し始皇帝以来専制王朝体制終わりを告げた。その直後密約どおり、孫文臨時大総統辞職することを表明し3月袁世凱臨時大総統就任した汪兆銘のこの動きはしかし革命派のなかでは、後退した戦略として問題視されることもあった。

※この「南北和議」の解説は、「汪兆銘」の解説の一部です。
「南北和議」を含む「汪兆銘」の記事については、「汪兆銘」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南北和議」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南北和議」の関連用語

南北和議のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南北和議のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの南北和議 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの汪兆銘 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS