南北和議
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南北和議(なんぼくわぎ)とは、革命等により、一国内で政権が分裂している状態において、南の政府と北の政府が和議を行うこと、またその結果、和議が成立した状態をいう。いろいろなケースで使いうる言葉であるが、ここでは、中国の辛亥革命後の南北和議について述べる。
- 1 南北和議とは
- 2 南北和議の概要
- 3 辛亥革命における「南北和議」
南北和議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)
中華民国は成立したものの、戦力不足のため清朝政府を打倒するまでには至らなかった。一方、清朝の側も帰趨定まらない北洋軍閥の巨頭袁世凱の再出馬を請うまでに追い詰められており、両者の対立は膠着状態に陥った。ここで、袁世凱が、まだ幼少であった宣統帝溥儀を退位させ、その代償として孫文に代わって袁世凱が臨時大総統職に就任するという奇策が浮上した。この奇策の実現に一役買ったのが汪兆銘であった。 汪は出獄後、袁世凱の腹心楊度と国事共済会を組織し、袁の子息袁克定(中国語版)とも接触し、南北和議における南方派委員となって孫文の代理として両者の連携を画策し、秘密裏に協議を重ねた。彼の暗躍もあって南北和議の密約が成立、2月には袁世凱の圧力のもと宣統帝が退位して清朝が崩壊し、始皇帝以来の専制王朝体制が終わりを告げた。その直後、密約どおり、孫文は臨時大総統を辞職することを表明し、3月、袁世凱が臨時大総統に就任した。汪兆銘のこの動きはしかし、革命派のなかでは、後退した戦略として問題視されることもあった。
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