孫文への接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:04 UTC 版)
1911年(宣統3年)、辛亥革命の際の「南北和議」では、唐紹儀は清朝側の代表をつとめた。唐は、南方代表の伍廷芳との間で積極的に交渉を進め、各省で停戦協定を次々と成立させている。しかし、この交渉の過程で、唐は共和制への転換の必要性を悟るようになる。そのため袁世凱の不興を買い、1912年(民国元年)1月2日には、唐は代表辞任を余儀なくされてしまった。 同年3月、唐紹儀は初代中華民国国務総理に任命された。さらに孫文(孫中山)とも親交を結び、唐自ら中国同盟会に加入している。しかし臨時大総統・袁世凱は唐に不満を抱き、その組閣に激しい干渉を繰り広げる。ついに6月、耐えかねた唐は、辞任に追い込まれてしまった。 その後の唐紹儀はいったん下野し、上海で金星人寿保険有限公司を設立して、その理事長となった。1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位を目論むと、唐はこれに反対し、実際に即位すると、退位を促す電報を打っている。翌年6月、段祺瑞内閣で外交総長に擁立されたが、唐は就任を拒否した。 1917年、護法運動が開始されると、唐紹儀は、孫文側の中華民国軍政府に参加し、軍政府の財政部長に指名された。翌年5月に、軍政府が大総統制から7総裁制の集団指導制に移行すると、唐も総裁の1人に任ぜられた。1919年(民国8年)、南北和平交渉が開始されると、唐は南方政府側総代表としてこれに臨む。しかし、交渉は情勢の変化等もあって失敗に終わった。 唐紹儀は、軍政府内で新たに専横を開始した主席総裁・岑春煊と、これを擁立する桂系(旧広西派)に反発するようになる。1920年(民国9年)6月、唐は上海の孫文の下に向かい、反岑の活動を開始した。孫文らによる岑の駆逐は、同年10月に成功している。しかし、まもなく唐は孫との間で政治路線をめぐり隔意を抱くようになり、下野して故郷に隠棲してしまった。以後、南北双方の政府から、再出馬を求められたが、唐はいずれも拒否している。
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