孫文への帰服、陳炯明撃破
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1916年(民国5年)3月15日、陸栄廷が護国戦争(第三革命)に呼応して反袁世凱と独立を宣言する。劉震寰は南寧の留守を預かる陳炳焜の招聘を受けて広西省に戻り、遊撃副司令兼営長に任命された。1918年(民国7年)2月、部隊を率いて元広東督軍竜済光の討伐に参加した。また、広西省内の匪賊討伐に従事している。 1921年(民国10年)、陸栄廷は一度喪失した広東を再び奪還しようと準備していたが、孫文(孫中山)は陳炯明に命じて広西省の陸へ先制攻撃を仕掛けた(「援桂」)。この時、劉震寰は梧州近辺に駐屯していたが、密かに陳軍に通じ、寝返って陸を攻撃した。劉は広西軍第1師師長に任命され、陸を撃破して、その残軍を吸収した。しかし、陳軍は広西省内で暴虐な行動に出たため、それを引き入れた劉の広西省内での評判は下落してしまう。 同年9月、劉震寰は広西清郷督弁に任命され、陸栄廷の残党を掃討した。まもなく孫文が桂林で大本営を設置し、北伐を計画したが、劉はこれに従わなかった。そして雲南の唐継尭と連合して、その雲南省帰還を援助する挙に出ている。 1922年(民国11年)6月、陳炯明が孫文と決裂すると、孫は桂軍(広西派)の劉震寰・沈鴻英、滇軍(雲南派)の楊希閔・范石生らを味方に引き込んだ。同年12月、劉は中央直轄桂軍第1路総司令に任命され、1923年(民国12年)1月、広州へ進撃して陳炯明を撃破した。これにより劉は、孫文から広州衛戍司令に任命された。4月、沈鴻英が孫文に叛逆したが、劉、楊らは反撃してこれを破った。
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