孫文支持派として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/06 06:10 UTC 版)
初めは旧学を学んでいたが、後に軍人を志し、江西陸軍小学堂、南京陸軍第4中学に入学する。1909年(宣統元年)、日本に留学し、東京振武学校に入学した。1911年に卒業・帰国し、翌1912年(民国元年)に江西都督府で任用されている。まもなく、保定陸軍軍官学校第1期歩兵科として入学したが、卒業はしなかった。1913年(民国2年)夏、李烈鈞配下として第二革命(二次革命)に参加したが、敗北して日本に亡命する。その後、南洋へしばらく外遊した。 1915年(民国4年)12月に護国戦争が勃発すると、曹浩森は直ちに帰国し、李烈鈞率いる護国軍第2軍で参謀庁上校課長に任ぜられた。翌年、第2軍の広東攻略に参加し、戦後に第2軍が駐粤滇軍第3師、第4師の2個師に改編されると、曹は第3師第31団団長となっている。1918年(民国7年)以降は孫文(孫中山)の護法運動に参加し、粤贛湘辺防軍務督弁署副官長、大元帥府少将高参、援桂第3路軍参謀長を歴任した。1920年(民国9年)、孫文の侍衛副官に任ぜられ、翌1921年(民国10年)に曹は再び日本に留学し、陸軍大学校で学ぶ。
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