孫文陣営への参加
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5月13日、常徳盛の暫編第1師は呉佩孚の命令により江西督軍に新たに着任する蔡成勲の護衛として同省南部に派遣されることとなり、高鳳梧とともにそれに従った。しかし、同年6月に魯山県で白朗残党の老洋人(張慶)が匪賊や民衆2万人を扇動して「河南自治軍」を称し、魯山起義(中国語版)を起こすと河南省に戻り、豫西剿匪司令として全省剿匪司令の靳雲鶚とともに鎮圧を担当したが、樊鍾秀の腹心の任応岐も河南自治軍に参加していたほか、靳雲鶚の1個団が壊滅させられるなど苦戦を強いられていた。樊鍾秀は老洋人と同郷であったことから、呉佩孚より交渉を任され、結果人質解放と正規軍としての引き込みに成功した。樊鍾秀の部隊は陝西靖国軍では2個支隊3000人だったが、この時5個遊撃支隊、計5000人の兵馬にまでなっていた。8月27日、陸軍少将に昇進する。12月、第2混成団団長。 1923年(民国12年)5月2日、呉佩孚の命により沈鴻英救援のため、常徳盛とともに再び江西省へ南下する。樊鍾秀は第一師補充隊の隊長を任じられ、河南自治軍から帰順した任応岐・陳青雲率いる2個支隊4個営を擁した。樊鍾秀はこれを機に孫文陣営に転じる決意をし、従兄弟の莫慶斌を使者として広州に向かわせるも、莫慶斌は帰途で蔡成勲に捕らえられ処刑された。樊鍾秀は吉安県に向かい、南昌の国民党のアジトを目指すが、北洋政府の捜査で壊滅した事を知り、副官の李肖庭と王鼎洛を再び広州へ向かわせる。李肖庭らは万難を排して広州に辿り着き、元老の一人凌鉞(中国語版)より孫文に引き合わされた。大元帥府秘書長の楊庶堪は方覚慧(中国語版)を樊鍾秀のもとにやり、広州に到着次第、10万元の報酬を約束した。11月6日、大庾嶺にて孫文擁護と広東革命陣営への参加、自軍を討賊豫軍と称し総司令就任を発表した。そのまま梅関古道(中国語版)より梅嶺(中国語版)を越えて広東省入りし、11月9日、沈鴻英の三個師を制圧し、南雄を占領。12日には韶関に到着した。しかしその頃、陳炯明は反撃に転じており、配下の洪兆麟(中国語版)・葉挙(中国語版)・林虎が12日に石竜鎮(中国語版)を制圧、14日には広州近郊の石牌・白雲山・痩狗嶺に到達し、大元帥府に迫りつつあった。14日夜、樊鍾秀は孫文から陳炯明討伐への参加を要請されると、早速兵を出して16日夜、黄沙駅に到着し、そのまま徒歩で大沙頭駅に向かい、討伐戦に参加。4列縦隊で三日三晩の戦闘の末、18日までに陳炯明軍を恵州へ追いやった。12月6日、孫文より武功を讃え歓迎パーティーを開かれた。また、妻と二人の子も広州に住むこととなり、うち一子は孫文より「得勝」と名付けられた。広州に邸宅を構えた際には、2000大洋を補助された。 翌1924年(民国13年)1月、中国国民党第1期候補中央監察委員に選出されている。4月、陳炯明は再度反撃を開始した。29日、孫文は樊鍾秀を東征右路総指揮、任応岐を前敵総指揮に任じた。30日、樊鍾秀は東江戦場へ赴き、陳炯明の故郷であった海陸豊(中国語版)(海豊県・陸豊市)を奪還。5月、河源・平湖・竜崗を攻め、6月、淡水・平山を占領。東江を平定した。7月、凱旋した樊鍾秀は部隊を再編し、4個旅8個団、計8000人に拡充した。閻鳳誥の兄の閻鳳崗が第1旅(参謀長兼)、任応岐が第2旅、陳青雲が第3旅、王鼎洛が第4旅旅長を務めた。 9月18日、第二次北伐、10月13日、建国軍北伐先遣隊総指揮に任ぜられた。正面は譚延闓が総司令を務め、南雄を出て、大庾・贛州に進軍。側翼は樊鍾秀が総指揮を務め、仙霞嶺から山道を迂回し吉安を攻める進路を取った。最終的に、両路は南昌で合流することとなっていた。この頃、討賊豫軍は建国豫軍に改組され、引き続き樊鍾秀が総司令をつとめた。桂東県橋頭郷では待ち伏せに遭い、一昼夜の激戦で大きな損害を出した。任応岐の第2旅、陳青雲の第3旅は損害が甚だしく、戦闘継続が困難だったため広州に帰還した。樊鍾秀は残りの2個旅3000人を率いて包囲網を突破し、80日以上の行軍と50以上の大小の戦闘、四省と5000余里の道のりを経て、長江を渡河し、12月中旬に胡景翼率いる国民軍第2軍が統治する河南省南部入りした。しかしそれから間もなくして20日、光山にて孫文より天津へ向かうよう命ぜられる。ただし、実際は翌年に孫岳・徐永昌の国民軍第3軍が天津攻略を担当し、樊鍾秀は後述の通り山西省に向かった。
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