第二次北伐とは? わかりやすく解説

第二次北伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)

桓温」の記事における「第二次北伐」の解説

その後、母の孔憲が亡くなると上疏し、免職申し出ると共に母を宛陵埋葬したいと請うたが、認められなかった。桓温は母に臨賀太夫人の印綬追贈し、敬と諡した。また、侍中派遣して母を祀らせ、謁者葬儀監護させた。10日間の内に弔問使者8度到来した桓温葬儀終えると、洛陽奪還して都を移し、園陵(西晋皇陵)を修復したいと考えようになった永和12年356年2月桓温10度以上に渡りこの事を上表したが、認められなかった。しばらくして桓温征討大都督・都督司冀二州諸軍事に昇進し、専征の任を委ねられた。 7月許昌洛陽奪還目論んで水軍率いて江陵出発し、督護高武に魯陽を守らせ、輔国将軍戴施を河上駐屯させた。同時に朝廷上疏し、譙・の間は既に水路通じていたので、徐州豫州の兵を動員して淮河泗河より黄河に入らせ、作戦合流させて欲しいと請うた。 8月桓温軍は進軍続けて至った羌族首領姚襄洛陽包囲していたが、桓温到来聞くと軍を返し、伊水の北を守って桓温防いだ桓温布陣すると自ら武具着け、弟の桓沖始めとした諸将指揮した桓温攻勢により、姚襄大敗喫して数千死者出し、北邙山を越えて西に逃げた配下張駿・楊凝らはみな桓温により捕らえられ尋陽へと送られた。桓温追撃掛けると、姚襄平陽に奔った。こうして遂に東晋洛陽45年ぶりに奪還した桓温はかつての太極殿前に駐屯し金墉城(洛陽城中にある小城)に入ったその後諸々皇帝の廟に参り壊されていた陵墓修復して墓守置いたしばらくして桓温は軍を旋回させて賊の周成討伐し、3000余り江・漢の間に移住させた。さらに、西陽郡太守滕畯を派遣して黄城より蛮賊文盧らを討たせ、さらに江夏相劉岵と義陽郡太守胡驥を派遣して妖賊李弘を討たせた。皆これを撃破し敵将首級建康送った桓温朝廷上疏して洛陽へ遷都主張した受け入れられず、やむなく洛陽守備隊残して引き上げた桓温荊州に戻ると、司州豫州青州兗州は再び五胡諸政実効支配下に置かれた。 升平4年360年)、臨賀郡公から南郡公に改封された。臨賀については郡公から県公に降ろされ上で次男の桓済が封じられた。 升平5年361年4月、弟の黄門郎桓豁を都督沔中七郡諸軍事・新野郡太守義城郡太守任じて前燕領の許昌侵攻させ、将軍慕容塵撃破した

※この「第二次北伐」の解説は、「桓温」の解説の一部です。
「第二次北伐」を含む「桓温」の記事については、「桓温」の概要を参照ください。

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