第二次北伐
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その後、母の孔憲が亡くなると上疏し、免職を申し出ると共に母を宛陵に埋葬したいと請うたが、認められなかった。桓温は母に臨賀太夫人の印綬を追贈し、敬と諡した。また、侍中を派遣して母を祀らせ、謁者に葬儀を監護させた。10日間の内に弔問の使者は8度到来した。桓温は葬儀を終えると、洛陽を奪還して都を移し、園陵(西晋の皇陵)を修復したいと考えるようになった。 永和12年(356年)2月、桓温は10度以上に渡りこの事を上表したが、認められなかった。しばらくして、桓温は征討大都督・都督司冀二州諸軍事に昇進し、専征の任を委ねられた。 7月、許昌・洛陽の奪還を目論んで水軍を率いて江陵を出発し、督護高武に魯陽を守らせ、輔国将軍戴施を河上に駐屯させた。同時に朝廷へ上疏し、譙・梁の間は既に水路が通じていたので、徐州・豫州の兵を動員して淮河・泗河より黄河に入らせ、作戦に合流させて欲しいと請うた。 8月、桓温軍は進軍を続けて伊水に至った。羌族首領の姚襄は洛陽を包囲していたが、桓温の到来を聞くと軍を返し、伊水の北を守って桓温を防いだ。桓温は布陣すると自ら武具を着け、弟の桓沖を始めとした諸将を指揮した。桓温の攻勢により、姚襄は大敗を喫して数千の死者を出し、北邙山を越えて西に逃げた。配下の張駿・楊凝らはみな桓温により捕らえられ、尋陽へと送られた。桓温が追撃を掛けると、姚襄は平陽に奔った。こうして遂に東晋は洛陽を45年ぶりに奪還した。桓温はかつての太極殿の前に駐屯し、金墉城(洛陽城の中にある小城)に入った。その後、諸々の皇帝の廟に参り、壊されていた陵墓を修復して、墓守を置いた。 しばらくして、桓温は軍を旋回させて賊の周成を討伐し、3000戸余りを江・漢の間に移住させた。さらに、西陽郡太守滕畯を派遣して黄城より蛮賊文盧らを討たせ、さらに江夏相劉岵と義陽郡太守胡驥を派遣して妖賊李弘を討たせた。皆これを撃破し、敵将の首級を建康へ送った。桓温は朝廷に上疏して洛陽への遷都を主張したが受け入れられず、やむなく洛陽に守備隊を残して引き上げた。 桓温が荊州に戻ると、司州・豫州・青州・兗州は再び五胡諸政権の実効支配下に置かれた。 升平4年(360年)、臨賀郡公から南郡公に改封された。臨賀については郡公から県公に降ろされた上で、次男の桓済が封じられた。 升平5年(361年)4月、弟の黄門郎桓豁を都督沔中七郡諸軍事・新野郡太守・義城郡太守に任じて前燕領の許昌へ侵攻させ、将軍慕容塵を撃破した。
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