第二次十河城の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 00:20 UTC 版)
「小牧・長久手の戦い」の記事における「第二次十河城の戦い」の解説
四国では、6月11日に長宗我部元親が十河存保の十河城を落し、讃岐平定を成し遂げている(第二次十河城の戦い)。家康は元親に「3カ国を与えることを約束した上で渡海して摂津か播磨を攻撃してほしい」(8月19日付の本多正信の親泰宛の書状で「淡路・摂津・播磨」としている。また信雄は香宗我部親泰に備前を与えるとしている)と求め、秀吉も元親の動きを恐れて小牧在陣中に大坂に帰ったりしている。
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