第一次十河城の戦いとは? わかりやすく解説

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第一次十河城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)

十河城」の記事における「第一次十河城の戦い」の解説

天正11年1583年4月秀吉の命をうけた仙石秀久淡路島から小豆島渡り、喜岡城屋島城攻城したが、攻めきれず撤退した。また小西行長軍も香西浦に進軍した長宗我部軍の反撃のため、上陸できないまま撤退した同時期、元親の本隊阿波国から大窪越え田面山に陣を張り虎丸城攻城取り掛かった。与田、入野周辺合戦となった十河存保軍の反撃したため、止む無く虎丸城周辺の麦苗代返し行い兵糧攻めとした。その時仙石軍が引田城入城したとの報にふれ、香川之景隊を引田城出軍させ引田の戦いとなった。この戦いで敗れた仙石軍は船で淡路国撤退した。存保は虎丸城撤退し十河城入城した。「一説には虎丸城は翌十二七月落城したとも伝えているが、詳細定かでない」としている。 一方秀吉は、小牧・長久手の戦い織田信雄徳川家康連合軍戦い続けている。この時家康は元親に味方し淡路国進軍するように呼びかけた。この動き即応した秀吉大坂城帰城防備固める。秀吉帰城知った家康は元親へ直ち進軍するように催促したが、伊予国土豪衆の動向毛利氏侵入への警戒、そして十河城落城していなかったことから、元親は家康要望には応えられずにいた。 四国平定急いだ元親は、十河軍に属していた寒川氏、由佐氏の調略成功し、彼らを用いて雨滝城をはじめ十河城支城次々落城、そして翌天正12年1584年6月11日、元親は十河城をついに落城させ、第二次十河城の戦い終結する。しかしその前日6月10日夜に存保は城を抜け出して逃走していた。存保と存之は元親に降伏申し出屋島から備前国そして堺へ逃走し羽柴秀吉配下になったとされている。 長宗我部軍の同盟者であった信雄は十河城落城の報を知ると、元親の弟である香宗我部親泰送った書状に、「六月十一芳翰、令披見祝着候、十川要害被攻崩之由珍重候」(織田信雄書状 八月十九日付け)とあり、十河城落城した事に喜び述べている。 その後の戦いについては羽柴秀吉四国攻め参照十河城長宗我部家攻略し長宗我部親武城主となった羽柴軍が讃岐国侵攻すると、1585年天正13年)には撤退讃岐国には秀久が領主となり存之は2万石を与えられ十河城復権された。しかし翌1586年天正14年九州征伐従軍し島津氏との豊後国戸次川の戦いにて戦死すると、十河城廃城となる。

※この「第一次十河城の戦い」の解説は、「十河城」の解説の一部です。
「第一次十河城の戦い」を含む「十河城」の記事については、「十河城」の概要を参照ください。

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