四国平定と秀吉との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)
「長宗我部元親」の記事における「四国平定と秀吉との対立」の解説
元親は近畿の政治空白に乗じて再び勢力拡大を図り、宿敵であった十河存保を8月に中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置いた(第一次十河城の戦い)。9月には勝端城に籠もった存保を破り、阿波を完全に平定する。10月には存保が逃れた虎丸城や十河城を攻めた。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対抗する。これに対して秀吉は家臣の仙石秀久を淡路洲本に入れて備えた。また元親に追われた十河存保は秀吉に援軍を求め、秀吉は秀久に屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせるも敗退。さらに小西行長の水軍に香西浦を攻めさせるもこれも敗退した。しかし4月に勝家は秀吉に敗れて滅んだ。このため5月に秀吉は元親を討つべく軍勢を準備していた。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでも、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った(引田の戦い、第二次十河城の戦い)。また新居郡の金子元宅と同盟し、南予の西園寺公広の諸城を落とすなど、伊予国においても勢力を拡大した。6月11日には十河城を落として讃岐を平定する。しかし小牧の戦いは秀吉と信雄が和睦するという形で終結した。 伊予国の平定は予想以上に手間取った。天正12年3月、毛利氏は宍戸元孝を河野氏救援のために派遣し、恵良で長宗我部軍と衝突する。4月には高山で、5月から6月にかけては恵良・菊間(菊万)で合戦を行っている。元親は東予の金子元宅との同盟をさらに強固にして9月から反攻に転じた。しかし渡海して遠征していた毛利軍は次第に劣勢になり、12月には遂に河野氏は元親に降伏した。その後、天正13年(1585年)春までに西予の豪族なども降伏させた。 通説によると天正13年(1585年)には四国全土をほぼ統一することに成功したとされているが、統一されていないと主張する研究者も複数おり、見解は分かれている。 詳細は「四国攻め#長宗我部氏による四国統一について」を参照
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