四国堂建立から晩年
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故郷の甲斐国丸畑には安永6年(1777年、60歳)5月、天明5年(1785年、68歳)、翌天明6年(1786年、69歳)、寛政12年(1800年、83歳)の4度帰っている。なお、記録には残されていないがその後も丸畑に滞在した可能性が指摘されている。 寛政12年9月の帰郷は、念願であった回国(日本一周)を果たした後で。同年10月に駿河国から富士川沿いに丸畑へ入る。同年12月には丸畑村の永寿庵の本尊である五智如来像を制作している。翌寛政13年正月に丸畑や横手など近在村人の依頼で丸畑に四国堂建立に取りかかる。同年3月から四国八十八箇所霊場にちなんだ八十八体仏のほか弘法大師像や自身像などを含めた90体弱の四国堂諸仏を製作し、一部を四国堂に安置した。享和元年には廻国満願の供養碑を建立している。四国堂は享和2年(1802年)2月21日に完成し、開眼供養が行われている、自身の半生を回顧した『四国堂心願鏡』を著している。なお、『四国堂心願鏡』は1924年(大正13年)6月9日に柳宗悦により発見されている。 四国堂諸仏をはじめ山梨県内に残される木喰仏は主に寛政12年から享和2年にかけて制作されたもので、晩年期の作風である「微笑仏」の特徴を備えていることが指摘される。木喰が晩年に多作した群像であり、像高は70センチメートル前後。造形的特徴として縁に放射状の刻みをもった頭背を持ち、荷葉・蓮台(蓮肉・蓮弁)・框で構成される三部の台座には最上部の荷葉に列弁状の彫刻が施されている。寛政12年9月15日から10月25日には身延町帯金の静仙院に滞在し、薬師如来像一帯を制作している。寛政13年には身延町塩之沢の金龍寺では日蓮上人像を制作しており、木喰唯一の日蓮の祖師像として知られる。 柳宗悦は四国堂に安置された諸仏は木喰が丸畑滞在中に制作した88体のうち80体で、これに自身像・大黒天像・弘法大師像の三体を加えた83体としている。 四国堂は1919年(大正8年)に売却され、堂は解体され安置されていた所像も四散した。柳宗悦が訪れた際には礎石のみが残っていたという。四国堂諸像は半数以上が所在不明となっており、1913年(大正13年)に柳宗悦が小宮山清三宅で見た木喰仏は、四国堂の旧仏である地蔵菩薩像、無量寿菩薩像、弘法大師像の三体であった。 木喰は故郷に安住することなく、85歳にしてまたも放浪の旅に出た。四国堂建立以降は木喰は記録を残しておらず、木喰仏背銘からわずかに足跡が知られる。91歳の1808年(文化5年)まで、仏像を彫っていたことが遺品からわかっている。文化5年(91歳)の時には再び甲斐へ帰国し、甲府に滞在している。甲府市金手町の教安寺には七観音像を残しているが、これは1945年(昭和20年)7月6日-7月7日の甲府空襲により焼失している。教安寺七観音像は1925年(大正14年)に刊行された写真集『木喰上人作 木彫佛』によりその像容が知られ、柳宗悦の解説に拠れば保存状態は悪く、背銘により文化5年4月14日から4月16日に制作されたという。記録に残る限り、教安寺像が最後の造仏とされる。 その後、甲府市善光寺の甲斐善光寺には阿弥陀如来図(現存)を書き残したのを最後に、記録からは見えない。故郷の遺族にもたらされた紙位牌によれば、1810年(文化7年)6月5日、93歳でこの世を去ったことになっている。 木喰の故郷である山梨県身延町には、彼を記念して木喰の里微笑館が建てられている。
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