第一次即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 03:57 UTC 版)
即位後、バルクークはカリフや法官たちに恩賞を与え、主要な支持者を政府の要職に就けた。敵対者に対しては当時の慣習に従って免職・投獄などの処罰を与えたが、バフリー・マムルークの排除を性急に進めようとはせず、彼らの懐柔を図ってスウドーン・アルファハリー、ヤルブガー・アンナーセリーらを要職に抜擢した。政情が安定するとバルクークは方針を転換してブルジー・マムルークを起用し、バフリー・マムルークたちの反乱が相次いで起きる。1383年9月、バルクークを暗殺してカリフ・ムタワッキル1世を新たなスルターンに擁立するバフリー・マムルークの計画が発覚する。首謀者の一人カルト・ブン・ウマル・アットルコマーニーを処刑し、ムタワッキル1世の処刑も行おうとしたが、法官たちの反対に遭って処罰を投獄・領地俸禄の没収に留めた。バルクークはムタワッキル1世を廃してワースィク2世を新たなカリフに擁立し、バフリー・マムルークへの圧力をより強めた。 1382年のバルクークの即位の直後、イフリーキヤ(現在のチュニジア、アルジェリア東部にあたる地域)の歴史家イブン・ハルドゥーンがエジプトを訪れていた。翌1383年にハルドゥーンと面会したバルクークは彼の才能を認め、保護を約束した。バルクークはハルドゥーンからハフス朝やマリーン朝などの北アフリカの国々の情勢と外交の情報を得、ハルドゥーンにマグリブ産の軍馬の輸入について意見を求めた。1384年8月には、ハルドゥーンをマーリク派の大法官に任命した。 1386年にマルディンから中央アジアのティムール帝国の軍隊がタブリーズを破壊した報告が届けられる。イラクのジャライル朝からもティムール進軍の知らせが届き、ティムールから降伏勧告を突き付けられたスィヴァスのエルテナ侯国(英語版)はマムルーク朝とオスマン帝国に助けを求めた。エルテナ侯国の君主ブルハネッディンの要請に応え、バルクークはディヤルバクルに軍を送った。マムルーク軍は進軍中に黒羊朝のカラ・ユースフ(英語版)に敗れたティムール軍の敗残兵を捕らえ、1388年にカイロに帰国した。同年にオスマン帝国のムラト1世からティムールの動向への注意を促す使者が送られ、バルクークはオスマン帝国への協力を約束した。
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