第一次十人委員会
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「アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌス」の記事における「第一次十人委員会」の解説
紀元前462年に提出された執政官権限を制限するテレンティリウス法案を巡ってローマではまた争いが起こり、古くなった法の代わりに、平民と貴族から平等に責任者を出し法を定める事が話し合われ、紀元前454年にはアテナイにソロンの法やギリシャの社会を研究するための使節団が派遣されていた。 紀元前452年に使節団が帰国すると、護民官は新法の設立を強硬に主張し、法制定のための十人委員会が設立される事となった。委員会は執政官の代わりに設置されて国政を取り仕切り、上訴は出来ないものとされた。護民官は平民も委員にねじ込もうと交渉したが、身体不可侵などを維持する事を条件に諦めた。 翌紀元前451年、この年の執政官として選出されていたアッピウスは十人委員会の一人となった。ここに登場するアッピウスは平民の敵から一変して平民を擁護する者となっており、圧倒的人気によって委員会の主導権を握った。委員会は極めて円滑に、公正に運営されたという。委員会は10枚の表からなる法案を張り出し、更に人々からの意見を求めて修正案を作り上げ、ケントゥリア民会で可決された。しかしその後更に2枚の追加が必要とされ、人々は執政官制度を嫌い、翌年も公正な委員会が続く事を望んだ。
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