第一次北伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)
2月、桓温は遂に北伐を実行に移し、前秦の首都長安攻略を目標に定めた。歩騎兵併せて4万を率いて江陵を出発し、水軍は襄陽から均口に入って南郷へと至り、陸軍は淅川から武関へ侵攻した。また、梁州刺史司馬勲には子午道から関中に入らせ、前秦を共同で撃った。同月、別動隊を上洛へ侵攻させ、前秦の荊州刺史郭敬を捕らえた。さらに青泥へ進撃してこれも攻略した。司馬勲もまた前秦の西の辺境を攻め、さらに前涼の秦州刺史王擢もまた桓温に呼応して陳倉を攻めた。 前秦君主苻健は太子苻萇・丞相苻雄・平昌王苻菁・淮南王苻生・北平王苻碩に迎撃を命じ、苻萇らは兵5万を率いて嶢柳・愁思堆に駐屯して桓温を阻んだ。 4月、桓温は藍田まで進むと、前秦の主力軍がこれを迎え撃ち、大規模な交戦となった。当初、苻生率いる前鋒部隊により突撃を受け、将軍応誕・劉泓が討ち取られて1000人余りが戦死するなど苦戦を強いられたが、桓温は力戦してこの戦局を覆し、最終的には前秦軍を大敗させた。さらには弟の将軍桓沖を白鹿原に進撃させ、苻雄軍を撃ち破った。さらに桓温軍は進撃を続け、遂に長安の東面にある灞上まで到達した。苻萇らは長安城南へ後退して守備を固め、苻健は残兵6000人を伴って溝を深く掘り、長安小城に籠もった。さらには3万の兵を新たに徴発し、大司馬雷弱児らに与えて苻萇軍に合流させた。 これにより、付近の郡県では桓温に降伏する者が相次いだ。桓温は百姓を慰撫し、彼らが安心して生業に励めるようにした。関中の住民は牛を牽いて酒を持ち、沿道まで出向いて桓温の到来を歓迎し、その数は全住民の8・9割に及んだ。ある老人は感極まり「今日、再び官軍を見る事が出来るとは、思ってもいなかった!」と語り、涙を流したという。 同月、苻雄は騎兵7千を率いて子午谷にいる司馬勲を攻めると、司馬勲は女媧堡に撤退した。 5月、王擢は陳倉を攻略し、前秦の扶風内史毛難を殺害した。 同月、桓温は苻雄らと白鹿原において交戦するも戦局は不利となり、1万人余りの損害を出した。 当初、桓温は関中で麦が熟するのを待ち、兵糧とする腹積もりであった。だが、苻健は尽く作物を刈り取って逃走したので、兵糧の供給が難しくなってしまった。 6月、桓温はこれ以上の侵攻を諦め、3000戸余りの民を引き連れて荊州へ帰還した。呼延毒は1万の兵を率いて桓温軍付き従った。苻萇らは撤退中の桓温軍を追撃し、潼関において追いついた。桓温軍は幾度も攻撃を受け、万の兵を失ったという。司馬勲・王擢もまた陳倉において苻雄より攻撃を受け、司馬勲は漢中へ、王擢は略陽へ逃走した。 桓温が灞上に留まっていた時、南郷郡太守薛珍は桓温へ直ちに長安へ進撃するよう勧めたが、桓温は従わなかった。その為、薛珍は単独で河を渡ると、大いに戦果を挙げたという。桓温が撤退を開始すると、衆人へ自らの勇猛さを誇ると共に桓温の慎重さを非難したので、桓温はこれを殺した。 9月、襄陽に到着すると、穆帝は侍中・黄門を派遣して桓温を労った。
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