第一次分割
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詳細は「第一次ポーランド分割」を参照 ロシアのエカチェリーナ2世は、アウグスト3世が死去した1763年頃から、親露派の貴族である元愛人のスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ2世、在位1764年 - 1795年)を王位につけるなど、さまざまな内政干渉を行うようになった。プロイセン王フリードリヒ2世はロシアの動きを見て、ポーランドがロシアに奪われることを警戒、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世を誘ってポーランド分割を提唱した。ポーランド側に復興への改革の兆しが表れたことに不安を感じたエカチェリーナ2世はプロイセンとオーストリアの提案に応じ、プロイセン・オーストリア・ロシアの3国によって第1回ポーランド分割(1772年)が行われ、3国はそれぞれ国境に隣接する地域を獲得した。 ポーランドの第一次分割後、スタニスワフ2世はエカチェリーナ2世の意にそぐわず、ポーランド王国の再興を目指すようになり、国内の民主化勢力を糾合してヨーロッパ初の成文憲法「5月3日憲法」を制定し(1791年)、王権を世襲制とし世界初の立憲君主制に踏み出した。
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第一次分割(1155年-1264年)
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「ポメラニア公の一覧」の記事における「第一次分割(1155年-1264年)」の解説
1155年、ポメラニアはポメラニア=シュテッティンとポメラニア=デミーンに分割された。1190年、シュラファとシュトルプがポメラニア=シュテッティンから分離した。 1231年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世はブランデンブルク辺境伯ヨハン1世とオットー3世をポメラニアの領主として認め、1236年のクレンメン条約と1250年のランディーン条約(英語版)で再確認した。これらの条約に従って、ポメラニアはブランデンブルクの封土になり、間接的には神聖ローマ帝国の封土にもなった。 シュテッティン デミーン シュラファ=シュトルプ 1155年-1190年ポメラニア=シュテッティン公国1155年、独立。1190年、ポメラニア=シュテッティンとポメラニア=シュラファに再分割。 ポメラニア=デミーン公国1155年、独立。 1190年-1238年ポメラニア=シュテッティン公国1238年、シュラファを併合。 ポメラニア=シュラファ=シュトルプ公国1227年、シュラファはポメラニア=シュテッティンに併合、シュトルプはポメレレンに併合。 ポメラニア=デミーン公国独立を維持。 1227年、シュラファはポメラニア=シュテッティンに併合、シュトルプはポメレレンに併合された。1238年にはシュラファもポメレレンの一部になり、Swenzo家(ドイツ語: Swenzonen)の城主に統治された。1316年、ポメラニア=ヴォルガストの一部になり、1347年には完全にブランデンブルクに支配された。 1238年-1264年ポメラニア=シュテッティン公国1264年、ポメラニア=デミーンと統一。 ポメラニア=デミーン公国1264年、ポメラニア=シュテッティンと統一。 1264年、ヴァルティスラフ3世が後継者を残さずに死亡し、バルニム1世がポメラニア公国を単独統治した。バルニム1世が1278年に亡くなるとその子ボギスラフ4世、バルニム2世、オットー1世が共同統治したが、弟たちが幼少だったこともあって長子のボギスラフ4世が政治を主導した。
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