第一次内閣
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「ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)」の記事における「第一次内閣」の解説
こうして発足した第一次ラッセル内閣(英語版)(1846年 - 1852年)だが、ホイッグ党は議会の多数派ではないから、ピール派(自由貿易を奉じて保守党を離れた議員たち)との協力が不可欠であった。ピール派は穀物法を復活させないために保守党政権を阻止するという立場であったものの、経済思想以外は保守的であったので、彼らとの連携は難しかった。 それでも工場法の1847年改正(Factories Act 1847; 通称十時間労働法)や1848年公衆衛生法(Public Health Act 1848)の制定、1850年にはニューサウスウェールズ州の自治に関するオーストラリア植民地政府法(Australian Colonies Government Act)の制定を行なっている。 1850年秋にローマ教皇ピウス9世がウェストミンスター大司教(英語版)職を新設した際には、イングランド国教会を害するものと激しく反発し、聖職者称号法(Ecclesiastical Titles Act 1851)によってカトリックが国教会の聖職者と同じ称号を持つことを禁止した。これによりラッセル政権とカトリックのアイルランド議員との連携が断ち切られ、1851年2月20日の庶民院の投票で敗北を喫し、女王に総辞職を申し出ることになったが、ダービー伯爵率いる保守党が組閣に失敗したため続投できた。 1851年12月にフランスで起こった大統領ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデタに際しては、ラッセルは「女王陛下の政府は中立の立場をとる」と声明したが、外務大臣パーマストン子爵が独断でルイ・ナポレオンのクーデタを支持した。これに激怒したヴィクトリア女王は「これでは女王の政府の公正と威信が世界中から疑われる」とラッセルを叱責した。パーマストンはこれまでも独断的な外交を多くしてきたが、これまでラッセルは彼の国民人気と党内右派の支持を配慮して目をつぶってきた。しかし今回は許容せず、パーマストンを外相から解任した。 これ以降ホイッグ党は自由党結成までラッセル派とパーマストン派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論を取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになった。ラッセル派は主に議会改革、パーマストン派は主に砲艦外交や強硬外交を主張した。 パーマストンを解任した後、ラッセルは、クーデタによって独裁権力を手にしたフランスのルイ・ナポレオンが、伯父の仇をとろうとイギリスに上陸作戦を決行するという不安に駆られるようになり、それに対抗するため1852年2月に会期が始まった議会でイングランド南東岸に民兵組織を作る法案を提出した。ところがパーマストンがラッセル内閣倒閣を狙って、その法案の修正法案を提出した。しかも保守党庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリがパーマストンに協力することを決定したため、修正法案はパーマストン派と保守党の賛成多数で可決された。これによりラッセル内閣は総辞職を余儀なくされた。
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