第一次内閣とは? わかりやすく解説

第一次内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:46 UTC 版)

ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)」の記事における「第一次内閣」の解説

こうして発足した第一次ラッセル内閣英語版)(1846年 - 1852年)だが、ホイッグ党議会多数派ではないから、ピール派自由貿易奉じて保守党離れた議員たち)との協力不可欠であったピール派穀物法復活させないために保守党政権阻止するという立場であったものの、経済思想以外は保守的であったので、彼らとの連携難しかった。 それでも工場法1847年改正(Factories Act 1847; 通称十時労働法)や1848年公衆衛生法Public Health Act 1848)の制定1850年にはニューサウスウェールズ州自治に関するオーストラリア植民地政府法(Australian Colonies Government Act)の制定行なっている。 1850年秋にローマ教皇ピウス9世ウェストミンスター大司教英語版)職を新設した際には、イングランド国教会害するものと激しく反発し聖職者称号法(Ecclesiastical Titles Act 1851)によってカトリック国教会聖職者と同じ称号を持つことを禁止した。これによりラッセル政権カトリックアイルランド議員との連携断ち切られ1851年2月20日庶民院投票敗北喫し女王総辞職申し出ることになったが、ダービー伯爵率い保守党組閣失敗したため続投できた。 1851年12月フランスで起こった大統領ルイ・ナポレオンナポレオン3世)のクーデタに際しては、ラッセルは「女王陛下の政府中立立場をとる」と声明したが、外務大臣パーマストン子爵独断ルイ・ナポレオンクーデタ支持した。これに激怒したヴィクトリア女王は「これでは女王政府の公正と威信世界中から疑われる」とラッセル叱責した。パーマストンこれまで独断的な外交多くしてきたが、これまでラッセル彼の国人気党内右派支持配慮して目をつぶってきた。しかし今回許容せず、パーマストン外相から解任した。 これ以降ホイッグ党自由党結成までラッセル派とパーマストン派という二大派閥に引き裂かれることとなった。両派は第三会派や世論取り込もうと、それぞれ別個のアピールをするようになったラッセル派は主に議会改革パーマストン派は主に砲艦外交強硬外交主張したパーマストン解任した後、ラッセルは、クーデタによって独裁権力を手にしたフランスルイ・ナポレオンが、伯父の仇をとろうとイギリス上陸作戦決行するという不安に駆られるようになり、それに対抗するため1852年2月会期始まった議会イングランド南東岸に民兵組織作る法案提出した。ところがパーマストンラッセル内閣倒閣狙って、その法案修正法案提出した。しかも保守党庶民院院内総務ベンジャミン・ディズレーリパーマストン協力することを決定したため、修正法案パーマストン派と保守党賛成多数可決された。これによりラッセル内閣総辞職余儀なくされた。

※この「第一次内閣」の解説は、「ジョン・ラッセル (初代ラッセル伯爵)」の解説の一部です。
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