政権内の混乱と石油危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:43 UTC 版)
「ヴィリー・ブラント」の記事における「政権内の混乱と石油危機」の解説
1972年秋に連邦議会で圧勝し、12月に東西ドイツ基本条約を締結して、ブラントの東方外交は国際的に注目を浴びたが、その後は目立った動きは無くなった。チェコスロバキアとの交渉は思った以上に長引き1973年12月にやっと調印された。選挙後の第二期内閣で、それまで側近として活躍したエゴン・バールは連邦首相府を離れていないが東方問題担当から特任大臣に担ぎ上げられて何らの指揮は任されなかった。ホルスト・エームケは連邦首相府長官から研究・技術相兼郵政相の大臣ポストに就いたが、首相周辺から遠ざけられた。報道官コンラート・アーラースも辞任した。選挙後の第二次内閣の組閣に当たった時にブラントは入院していた。そして組閣人事はヘルベルト・ヴェーナー議員団長が取り仕切って、ブラントは病気回復後に受け入れざるを得なかった。第一次内閣でも、アレックス・メラー財務相は1971年5月に去り、その後任で経済相を兼務したカール・シラーも1972年7月に辞任した。ヘルムート・シュミット国防相は結局ブラントに慰留される形で財務相・経済相を兼務する形で残った。この時期のブラントは消耗しきって、燃え尽きて、疲れ切っていた。エゴン・バールは1972年秋の選挙戦勝利が彼の政治生活の頂点であり、そこから否応なしに下降した、と後に述べている。ヘルベルト・ヴェーナーとヘルムート・シュミットもブラントを支えてきたが、第二期に入るとこの二人との溝も深まった。そして肝心の連邦首相府内が以前のエームケは万事にわたって指示を与えられる人であったが、新任のホルスト・グラーベルトではその任に耐えられなかった。 そして1973年10月に第四次中東戦争の勃発とともに、産油国のいわゆる石油戦略で第一次石油危機が起こり、欧米や日本の経済が大混乱する事態となった。この事態で先進各国は国内での経済運営に苦しむが、西ドイツにおいてもブラント政権の人気が下降し、さらに外交の分野はともかく経済や財政の政策領域におけるブラントの力量が問われることとなった。1974年に入ると、かつてブラントを支持していた労働組合が大幅賃上げの要求を出し、ブラントはその要求を受け入れた。そのこともブラントにはイメージダウンであった。直後のハンブルクでの地方選挙でSPDは10%以上の票を失った。
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