政権内部の権力抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 09:43 UTC 版)
「アブドルカリーム・カーシム」の記事における「政権内部の権力抗争」の解説
折しもアラブ世界はアラブ社会主義の絶頂期にあり、イラクにおいてもアラブ連合共和国との統合問題が重要性をもっていた。この問題に対して政権内部では、アーリフをはじめとするナセリストの統合推進派(カウミーヤ)とカーシムを中心とするイラク第一主義の慎重派(ワタニーヤ)に分かれていた。最終的にこの権力闘争はカーシムの勝利に終わり、ナセリストを基盤とした統合推進派は逮捕され、アーリフらは人民裁判により処罰を受けて罷免され、投獄された。これには1956年からイラク共産党やカーシムの属する国民民主党と国民連合戦線(アラビア語: حزب الاستقلال العراقي)と呼ばれる共同戦線を組んできたバアス党も反発し、バアス党地域指導部書記長のフアード・リカービーは閣僚を辞任してバアス党員サッダーム・フセインらと暗殺未遂事件を起こしてシリアなどの外国に逃れた。 その後カーシムは、政権の支持基盤を共産党に求め、農地改革をはじめとして経済政策に共産党路線が強く反映された。このような容共的な態度に対し、政権に参加する民族主義勢力や軍部の反発を招いた。 カーシムに反発する軍の一部はモースルでクーデターを起こしたものの、すぐに鎮圧された。その後、クーデター同調者は一部の武装共産党員によって惨殺された(モースル蜂起(英語版))。モースル蜂起の後、共産党は政権に参加し、3名入閣させるに至った。
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