蜂起の後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:18 UTC 版)
「クナシリ・メナシの戦い」の記事における「蜂起の後」の解説
北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの蜂起の後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた。 幕末の1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知床日誌」によると、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は会所で番人達の妾にされ、男性は夫役のため離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。 また、幕末に箱館奉行が種痘を行い対策を講じたものの、和人がもたらした天然痘などの感染症が猛威をふるい、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握された人口(江戸時代の日本の人口統計も参照)が、明治6年(1873年)には1万8630人に減ってしまった。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。
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