蜂起と譲歩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:40 UTC 版)
3月25日、オンラインで「栄光の金曜日」(アラビア語: جمعة العزة)と呼ばれる大規模デモが新たに呼びかけられ、国内各地の街路で数万人が抗議活動を行った。シリア南部では軍隊が発砲し、平和的なデモの参加者が殺害されたとする証言があり、ニュースでも報道された。抗議者たちに対する取り締まりはますます暴力的になった。ダルアーでは10万人以上の人々がデモに参加し、少なくとも20名の人々が殺害されたとする報告がある。H.アサドの彫像がばらばらにされて火が放たれた。知事の家にも火が放たれた。ダマスカス、デリゾール、ホムス、ラタキア、ラッカにおいても抗議活動が起きたとされる。サナマインでは20名の人々が治安部隊に殺害されたとする証言がある。ダルアーではデモ中に17名の人々が殺され、オマリモスク周辺では40名、サナマインで25名、ラタキアで4名、ダマスカスで3名の死者があった。 亡命中の宗教指導者や政治指導者たちがこの衝突に関わり始めた。スンナ派法学者ユースフ・アル=カラダーウィーはカタールで説教を行い、その中で以下のように述べた。 「 今日、革命の列車がシリア駅に到着した。それはいずれ辿り着く運命にあった。シリアをアラブ国家の歴史から引き離すことはできない。 」 AFPは、亡命中のシリア反体制派指導者がパリに立ち寄り、アサドを失脚させ、フランスが「罪のない人々の殺害をやめさせる」ようシリア指導者に圧力をかけるよう働きかけたと報じた。 3月26日、アサドは200名以内の政治犯釈放を発表し、抗議者たちに対する政府側の最初の譲歩を提示した。翌日、アサドのメディア顧問ブサイナ・シャアバーン(en:Bouthaina Shaaban)は、事前予告なしに非常事態法の撤廃を発表した。3月29日、シリアの新聞アル=ワタン(en:Al-Watan (Syria))は、主要閣僚の入れ替えが行われると報じ、後日アサドは首相ムハンマド・ナージー・アトリー(en:Muhammad Naji al-Otari)率いる内閣の辞表を受理した。但し、新内閣が選ばれ公式発表されるまでは暫定的に首相を続けるとされた。 アサドに忠誠を示す軍部隊が動き出した。シリアの大ムフティーアフマド・バドルッディーン・ハスーン(en:Ahmad Badreddin Hassoun)は次のように述べた。「全ての国民には自由を求めて抗議する権利がある。しかしながら私は言う。流血の背後にいる全ての者は有罪となるであろう。抗議する者に対して発砲する軍役人はいません。彼らは自衛のために応戦をしただけです。何かが起きた後、人々は和解をしなければなりません。この国には堕落した者が居り、堕落した者は有罪としなければなりません。」3月29日、ダマスカス、アレッポ、ハサカ、ホムス、タルトゥース、ハマーでアサドを支持する数十万人規模のデモが行われた。3月30日、アサドは暴動を扇動した外国人を非難し、ブサイナ・シャアバーンが示した非常事態法の撤廃を実施せず、将来の検討課題に留めるとする演説を行った。YouTubeに投稿されたCNNの報告において、水曜日に演説を終えたアサドの車を一人の女性が攻撃したとするシリア国営テレビの映像が示された。ラタキアでは、アサドの演説に失望した抗議者たちが街路に繰り出し、警官から発砲を受けた。翌日の国営シリア・アラブ通信(SANA、en:Syrian Arab News Agency)は、アサドが4月1日から公務員給与を引き上げる命令を出したことを伝えた。
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