蜂起と北進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 14:48 UTC 版)
410年(義熙6年)2月、盧循らはついに挙兵し、諸郡を襲撃した。守相(郡国の長官)たちは皆任務を放棄して逃げ出した。劉牢之の女婿で鎮南将軍の何無忌は軍を率いてこれを阻もうとしたが、敗れて殺された。盧循は徐道覆を派遣して江陵(湖北省荊州市荊州区)を攻撃させたが、行軍途中で官軍に破れた。 盧循は都を攻めようとする徐道覆の建言を入れ、10万の兵士と数千艘の船で揚子江を下った。衛将軍の劉毅を桑落洲(江西省九江市付近)で破ると、直行して江寧(江蘇省南京市西南)に到着した。徐道覆は決断力のある人物で、劉裕がすでに都に戻っていたのを知ると決戦を考えて盧循を説得したが、決断力に乏しい盧循は万全の計を用いようとしたので聞き入れなかった。 劉裕は盧循らが侵攻してくるのを恐れて石頭(南京市清涼山)に柵を築き、査浦(秦淮河河口付近)を遮断して敵軍を阻もうとした。盧循は柵を攻めたが成功せず、そのうち船が暴風で転覆して死者を出すにいたった。そこで南岸に陣を連ねて戦ったが、またしても大敗した。盧循は荊州(湖北省・湖南省)を確保して持久戦に持ち込むべく、南へ退却し再び尋陽を根拠地にしようとした。
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