蜂起および緒戦の勝利
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大中13年(859年)冬12月、浙東の賊の首領である裘甫が象山を攻め落とした。官軍は敗北を重ね、明州では日中でも城門を閉ざすほどであった。賊は進撃して剡県に迫った。賊の人数は100人ほどであったが、浙東地方は大騒ぎとなった。観察使の鄭祗徳は、討撃副使の劉勍と副将の范居植に命じて兵300を率いて台州の部隊と合流して討伐させた。 大中14年(860年)春正月乙卯、浙東軍は桐柏観(とうはくかん、台州天台山にある道観)の前で裘甫と戦ったが、范居植は戦死し、劉勍は命からがら逃げ帰ってしまった。その後裘甫は仲間1000人余りを率いて剡県を陥れ、役所の倉庫を開いて壮士を募ったのでその勢力は数千人となった。 この情勢に観察使のひざ元である越州では大恐慌をきたした。当時浙江地方では平和が続いていたので、武器はなまくらで戦闘の訓練もろくに行われず、兵力は300名にも満たない状況だったからである。鄭祗徳は新たに兵士を募集して増強を図ったが、軍の役人が賄賂を取ったため、集まってきたのは弱兵ばかりであった。それでも鄭祗徳は正将沈君縦・副将張公署・望海鎮将李珪の三人に命じて新兵500名をもって裘甫を討たせることにした。 2月辛卯、官軍は裘甫と剡県の西方で戦った。賊はいくつかの渓流の合流点に伏兵を置き、主力は渓流の北側に布陣した。このとき渓流の上流をせき止めて人が渡れるようにしておいた。戦闘が始まると賊軍はわざと負けたふりをして逃げ出し、官軍が追撃のため川を半ば渡ったところで堰を切った。このため3人の将軍は戦死し、官軍はほぼ全滅した。
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