蜂起および緒戦の勝利とは? わかりやすく解説

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蜂起および緒戦の勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:08 UTC 版)

裘甫の乱」の記事における「蜂起および緒戦の勝利」の解説

大中13年859年)冬12月、浙東の賊の首領である裘甫が象山攻め落とした官軍敗北重ね明州では日中でも城門閉ざすほどであった。賊は進撃して剡県に迫った。賊の人数100人ほどであったが、浙東地方は大騒ぎとなった観察使の鄭祗徳は、討撃副使の劉勍と副将の范居植に命じて300率いて台州部隊合流して討伐させた。 大中14年860年春正月乙卯、浙東軍桐柏観(とうはくかん、台州天台山にある道観)の前で裘甫と戦ったが、范居植は戦死し、劉勍は命からがら逃げ帰ってしまった。その後裘甫は仲間1000余り率いて剡県を陥れ、役所倉庫開いて壮士募ったのでその勢力数千となった。 この情勢観察使ひざ元である越州では大恐慌きたした当時浙江地方では平和が続いていたので、武器なまくら戦闘訓練もろくに行われず兵力300名にも満たない状況だったからである。鄭祗徳は新たに兵士募集して増強図ったが、軍の役人賄賂取ったため、集まってきたのは弱兵ばかりであった。それでも鄭祗徳は正将沈君縦・副将公署望海鎮将李珪三人命じて新兵500をもって裘甫を討たせることにした。 2月辛卯官軍は裘甫と剡県の西方戦った。賊はいくつかの渓流合流点伏兵を置き、主力渓流北側布陣した。このとき渓流の上流をせき止めて人が渡れるようにしておいた。戦闘が始まると賊軍はわざと負けたふりをして逃げ出し官軍追撃のため川を半ば渡ったところで堰を切ったこのため3人の将軍戦死し官軍はほぼ全滅した

※この「蜂起および緒戦の勝利」の解説は、「裘甫の乱」の解説の一部です。
「蜂起および緒戦の勝利」を含む「裘甫の乱」の記事については、「裘甫の乱」の概要を参照ください。

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