蜂起とアイルランド・カトリック同盟
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「清教徒革命」の記事における「蜂起とアイルランド・カトリック同盟」の解説
武装蜂起は1641年10月23日に北部のアルスターでフェリム・オニール(英語版)、ローリー・オモア(英語版)らに率いられおこった。この蜂起の理由については、アイルランドの地主たちの債務の帳消しを狙ったものであるとする説、ニュー・イングリッシュに奪われた土地を取り戻そうと立ち上がったとする説などがある。当初アルスターで起こったこの武装蜂起の首謀者はゲール系オールド・イングリッシュであったと推定されるが、多くのオールド・イングリッシュは蜂起に否定的であった。これが債務説が支持されるゆえんであるが、とにもかくにも武装蜂起はたちまちアイルランド全土に飛び火した。これには、総督府がオールド・イングリッシュをも反乱勢力とみなして敵視したため、彼らは反乱に合流せざるを得なかったという事情があった。したがって反乱勢力といっても徹底抗戦を主張する者と、早期の和平を望む者とが混ざりあっていたのである。 加えて、アイルランドへカトリック国のスペイン・フランスから支援があったことで、本国から支援を受けられない総督府は苦戦を強いられた。スペイン傭兵として活動していたオーウェン・ロー・オニール(フェリム・オニールの同族)などがアイルランドに帰国し反乱側は増強、対する総督府は統制が取れず仲間割れする有様だった。 やがて総督府が反攻に出ると、反乱勢力はカトリック聖職者の助けをえて翌1642年10月24日に評議会「アイルランド・カトリック同盟(キルケニー同盟ともよばれる)」をつくり、組織化して対抗した。最高評議会員24名のうち5名が高位聖職者であり、その後かれらの意向が色濃く反映されてゆくことになる。またこれ以前の5月11日に、カトリック同盟とは別の組織で聖職者会議であるアイルランド・カトリック全国聖職者会議も作られ、この組織もアイルランドの行く末に影響を与えていった。
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