蜂起の終結とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 17:15 UTC 版)
「スロバキア民衆蜂起」の記事における「蜂起の終結とその後」の解説
蜂起軍部隊とパルチザンは、カルパティア山脈の山中に籠もって抵抗活動を続けた。ドイツ国防軍は報復として、蜂起軍を支援した容疑で多くのスロバキア人を処刑し、93村を破壊した。その後の調査によると、ドイツ国防軍の報復行為による死者はスロバキア人住民、ユダヤ人、ロマ人およびパルチザンの合わせて5304人に上り、処刑者を埋葬した共同墓地が211カ所で発見されている。 このうちフロン県(現・バンスカー・ビストリツァ県)内のバンスカー・ビストリツァ郡クレムニチュカ村(現・バンスカー・ビストリツァ市クレムニチュカ街区)では747人(うち女性211人、6歳から14歳までの子供58人)が、ブレズノ・ナド・フロン郡(現ブレズノ郡)ネメツカー村では約400人(または800~900人)が処刑された。ネメツカー村ではドイツ国防軍の特殊部隊によって村民の遺体が村の石灰窯で焼却処分されたため、正確な犠牲者の数は現在も不明である。 ドイツ国防軍は11月3日、蜂起軍司令部のゴリアンとヴィエストをバンスカー・ビストリツァ東方約15キロのブレズノ・ナド・フロン郡ポフロンスキー・ブコベッツ村で逮捕。尋問したあと銃殺刑に処した。蜂起軍に同行した英軍特別作戦部と米軍戦略諜報局の隊員は合流し、連合国軍に対して早急な支援を求めたが、ドイツ国防軍は12月25日に隊員たちを逮捕。数人を即決裁判で処刑したほか、残りの隊員を拷問や処刑が行われていたマウトハウゼン強制収容所に連行した。 スロバキアにおけるドイツ国防軍の蜂起鎮圧は、スロバキアの親独政権の崩壊をわずかに先送りしただけに終わった。ソ連軍および新たにドイツに宣戦布告したルーマニア軍は、チェコスロバキア国内のドイツ国防軍への攻撃を開始し1944年12月までにスロバキア南部からドイツ軍を駆逐した。さらに1945年1月19日、ソ連軍はスロバキア東部のバルジェヨウ、スヴィドニーク、プレショウ、コシツェを制圧するとともに、同年3月3日から3月5日にかけてスロバキア北西部を制圧した。3月25日にはバンスカー・ビストリツァを、4月4日にはブラチスラヴァを制圧し解放した。スロバキア共和国政府はオーストリアへ亡命したが、5月8日に米軍に降伏し消滅した。 スロバキア民衆蜂起は、欧州東部戦線を後方から支えていたチェコスロバキア国内のドイツ国防軍部隊に大打撃を与えてより早くチェコスロバキアを占領状態から解放することが可能な闘争だったが、蜂起時期の悪さや蜂起軍への妨害ともいえるソ連パルチザンの非協力的態度によって、当初目論んでいた軍事的目標を達成することができなかった。蜂起軍の攻撃、ドイツ国防軍の反撃およびその占領によって、スロバキアの国土の大半が荒廃した。 戦後のスロバキアでは、ブラチスラヴァ市のドナウ川に建設した斜張橋をスロバキア国民蜂起橋(Most SNP、1972年供用開始)と命名するなど、各地に蜂起を記念した公園や記念碑などが設けられている。また蜂起軍司令部が置かれたバンスカー・ビストリツァにはSNP博物館があって研究活動を行っているほか、連邦制解消後の1993年以降、蜂起が始まった8月29日を国家の祝日(Štátne sviatky)である「スロバキア国民蜂起記念日」(Výročie Slovenského národného povstania)と定めている。
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