戦略諜報局(OSS)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 09:02 UTC 版)
「ウィリアム・ドノバン」の記事における「戦略諜報局(OSS)」の解説
1941年7月11日、ドノバンは情報調査局(Office of the Coordinator of Information, OCI)の長たる情報調査官(Coordinator of Information, COI)に就任する。当時、アメリカにおける対外諜報活動は陸軍、海軍、連邦捜査局(FBI)、国務省などがそれぞれの利害関係に基づき独自に行なっており、獲得した情報の共有も全く行われていなかった。情報調査官のポストはこれらの諜報活動を統括するものとされていたが、ドノバンは各機関の縄張り争いに悩まされることになる。多くの諜報機関の長は旧来からの分断されたシステムの中で獲得した権力を手放すことに難色を示していた。例えば当時ドノバンのライバルだったジョン・E・フーバーが長官を務めたFBIは、南米における諜報活動の自主権を主張していた。 こうした逆風の中でも、ドノバンは中央集中的な諜報システムの基礎を徐々に築いてゆく。1941年10月には英国軍情報部第6課(MI6)の支局からロックフェラー・センター3603号室を引き継ぎ、情報調査局ニューヨーク本部を設置。本部長はアレン・ダレスに依頼した。 1942年、COIは戦略諜報局(Office of Strategic Services, OSS)に改組され、長官となったドノバンは陸軍大佐として現役復帰を果たす。ドノバンの指揮下でOSSは世界各地に展開し、ヨーロッパやアジアでは数々のスパイ活動やサボタージュ任務を成功させた。一方でFBI長官フーバーの激しい抵抗の結果、南米が管轄に含まれることはなかった。また、南西太平洋戦線指揮官のダグラス・マッカーサー将軍もOSSに対する反感からフィリピンにおける活動を禁止している。 OSSの活動は長らく機密扱いされていたが、1970年代から1980年代にかけて、OSSの歴史に関する重要な箇所が機密解除され公的記録となった。 第二次世界大戦終結直前の1945年初頭、ドノバンはOSSを戦後も存続させる為に様々な働きかけを行った。だが、ルーズベルト大統領が4月に死去すると、大統領との個人的な親交に基いていたドノバンの政治的権限は大幅に弱体化し始めた。ドノバンはOSSの維持を強く訴えたものの、新大統領ハリー・トルーマンら大多数がこれに反対したのである。トルーマンは個人的にもドノバンを嫌っており、FBIの国際活動権限強化を目論むフーバーもこれに同調した。世論の反応もドノバンに厳しく、保守的な批評家らはOSSを指して「アメリカン・ゲシュタポ」と評したという。1945年9月、トルーマンの命令でOSSが解散されると、ドノバンは官職を退き市民生活へと戻った。しかし、実際にはOSSの各部門は別部署として解体を免れており、2年も立たない内に中央情報局(CIA)が設立されることになる。これはドノバンが望んでいた中央集中型の諜報機関そのものであった。
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