ドイツ国防軍の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 17:15 UTC 版)
「スロバキア民衆蜂起」の記事における「ドイツ国防軍の反撃」の解説
ドイツ国防軍は9月19日、蜂起軍鎮圧作戦の指揮官を交代させた。この時点で作戦に加わっているドイツ国防軍部隊の兵力は、武装親衛隊の4個師団を含む8個師団4万8000人で構成され、うち1個師団は親ナチスのスロバキア人部隊であった。一方蜂起軍は10月1日、連合国側から連合国軍部隊としての承認を受けることを期待し、チェコとスロバキアの再統一を目指す意図を込めて部隊名を「在スロバキア第1チェコスロバキア軍団」と改名した。 ドイツ国防軍はハンガリー駐屯部隊の3万5000人を動員し、10月17日から10月18日にかけて蜂起軍への総攻撃を開始した。このときスターリンは、ウクライナ東部のソ連軍第2ウクライナ方面軍に対し、ドイツ国防軍の防衛が手薄となったハンガリーに転進するよう命令。スターリンの関心がスロバキアやチェコからハンガリー、オーストリア、ポーランドに移ったため、スロバキア方面におけるソ連軍は10月後半にすべての作戦を停止した。このためドイツ国防軍は10月末までに蜂起軍勢力圏の大半を取り戻し、蜂起軍を包囲した。この間の戦闘で双方に少なくとも1万人の死傷者が出た。 追いつめられた蜂起軍は10月27日、バンスカー・ビストリツァから撤退した。蜂起軍に加わっていた英軍特別作戦部員および米軍戦略諜報局員も蜂起軍と行動を共にした。蜂起軍は戦術をゲリラ戦に転換することになり、司令官のヴィエストは10月28日、ロンドンの亡命政府に対して蜂起の終結を報告した。 10月30日、ドイツ国防軍とスロバキア共和国政府はバンスカー・ビストリツァで蜂起鎮圧の祝賀会を開き、ティソは鎮圧に功績があったドイツ国防軍兵士に勲章を授与した。ティソのこの行為については、ドイツ国防軍に捕らえられ強制収容所に送られた蜂起軍兵士の処刑阻止やドイツ国防軍によるスロバキアの主要3都市爆撃阻止の狙いがあったのではないかとする説もある。
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