蜂起以前のポーランド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:40 UTC 版)
ポーランド分割後、ポーランド・リトアニア共和国は独立を喪失して国家としての実体を失った。しかし、ナポレオン戦争とロシアおよびオーストリアに対するポーランド分割期の諸戦争の結果、その旧領の一部にはワルシャワ公国が建国された。ところがこの新国家もウィーン会議の決議によって消滅し、再びロシア、プロイセン、ハプスブルク帝国によって分割された。オーストリア・ハンガリーは旧共和国の南端部の一部を併合し、プロイセンは西部を奪って半自治的なポズナン大公国を創設し、分割において指導的な役割を果たしたロシアは旧領の残る大部分に半自治的なポーランド立憲王国をおいてこれを支配した。 まもなく、立憲王国はかなり大幅な自治権を有するようになり、ロシアの支配にも間接的に従属するだけだった。ロシアと立憲王国は人的同君連合であり、ロシア皇帝がポーランド王を兼ね、ポーランド国家は独自のセイム(国家議会)と政府を有し、裁判所、軍隊、国家財政の面でも独立していた。しかし立憲王国に与えられていた自由は徐々に削減され、憲法は次第にロシア当局から無視されるようになった。アレクサンドル1世は正式にポーランド王として戴冠することはなかった。その代わり、皇帝は憲法に違反して弟のコンスタンチン・パヴロヴィチ大公を総督に任命した。 ウィーン会議での決議が調印されて間もなく、ロシアはこの決議を尊重しなくなった。1819年、アレクサンドル1世は立憲王国における出版の自由を取り上げ、検閲を導入した。ニコライ・ノヴォシリツェフ伯爵に率いられたロシア秘密警察は、ポーランド地下組織への迫害を開始し、1821年には勅令によってフリーメイソンが禁止された。(チャルトリスキ家の人々をはじめとするポーランドのフリーメイソンは啓蒙主義の時代にヨーロッパ初の民主主義成文憲法である「1791年憲法」(5月3日憲法)を制定した政治運動の中心的存在で、ポーランド分割後もポーランド国内の自治拡大および民主化のための運動を主導していた)。1825年、セイムの議事進行は非公開となった。 同君連合を支持する大多数のポーランド人政治家の抗議にもかかわらず、コンスタンチン大公は当時のヨーロッパで最も進歩的だったポーランド憲法を遵守することなく政治を運営した。大公はポーランド人の社会組織や愛国者組織、カリシュ派の自由主義的な反体制運動を迫害し、重要な行政官職をポーランド人から奪ってロシア人に与えた。ポーランド人ヨアンナ・グルジンスカと結婚していたにもかかわらず、大公は一般的にすべてのポーランド市民(注:ポーランドは多民族の市民の連合社会)および多文化民主主義の敵と見なされていた。さらに、コンスタンチンがポーランド軍の司令官だったことは、士官学校内で深刻な対立を引き起こした。こうした不和のため、立憲王国中で軍隊を初めとして様々な陰謀が計画されることになった。
※この「蜂起以前のポーランド」の解説は、「11月蜂起」の解説の一部です。
「蜂起以前のポーランド」を含む「11月蜂起」の記事については、「11月蜂起」の概要を参照ください。
- 蜂起以前のポーランドのページへのリンク