啓蒙主義の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:41 UTC 版)
同時にヨーロッパでは啓蒙思想や自由主義が叫ばれる時代へと突入していき、北欧でも絶対王政に対する批判と君主制と民主制を調和させた新しい政体が求められるようになっていった。スウェーデンでは1719年に新憲法が制定されると国会が国家の最高機関と位置付けられるようになり、王権は著しく制限された。国会が実権を持つようになると代表者たちは党派を形成するようになり、親英露政策を取るナット・メッサ党と親仏政策を取るハット党が誕生した。しかし、アドルフ・フレドリク王の末年に入ると2党の政争は益々激化し、国民からは政権争奪を中心に添えた政治の在り方に疑義が持たれるようになった。こうした世論を受けてグスタフ3世は即位した翌年の1772年に元老院と国会に武威を示して新憲法を承認させ、再び絶対王政を布き政党の活動と国会を抑圧した。1788年、グスタフ3世はロシアが対トルコ戦に忙殺されている間隙を縫っての遠征を企てる。これを見たデンマークが再びスウェーデンに宣戦してスコーネに進軍を始めたがグスタフ3世は1789年にこれを撃退、その勢いのままフィンランド湾の海戦にてロシア艦隊を撃破し、スウェーデンの勢威を示すと共にさらなる王権の強化に成功することとなった。 しかし1792年、グスタフ3世の施政に異論を持つ貴族に暗殺されグスタフ4世が王位に就くと国際情勢は一変し、1809年の第二次ロシア・スウェーデン戦争においてロシアによってフィンランド全地域を占領されるに至った。同年、スウェーデンの無力に絶望したフィンランドはロシア皇帝をフィンランド大公に戴くことを国会で決議し、ロシアへの服属を誓った。グスタフ4世はこの敗戦の責任を問われて廃位されるとカール13世がその王位に就いた。カール13世はフィンランドにおけるロシアの軍事力排除は困難と判断し、ロシアとフレデリクスハムンの和約を締結してフィンランドおよびオーランド諸島をロシアへ割譲した。啓蒙思想が広がる中で絶対王権の国家体制を取り戻そうとしたスウェーデンのこの時代をグスタフ時代と呼称する。 一方でデンマークは1720年にスウェーデンと講和条約を締結するとフレデリック5世は歌舞やスポーツを奨励して文化的発展を促しただけでなく、通商に留意して輸入制限を設けることで国内産業の振興に務めるなど、再び平和政策に転じるようになった。クリスチャン7世が王位に就くと、1770年、后のキャロライン・マティルダによって見出されたドイツ人のヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセが宰相に任じられ、ルソーの啓蒙思想に倣った多くの改革が断行された。しかし、デンマーク語を解さないドイツ人宰相によって猪突的に実施された諸改革は周囲に猛烈な反抗を引き起こし、1772年には神学者グルベアを中心とした反改革派によるクーデターが勃発した。グルベアは同年に宰相に就任するとストルーエンセの諸改革を抹殺し、保守的な政策を十余年継続した。1784年、フレデリック6世が王位に就くと啓蒙主義的な貴族の支援のもとに農奴制の廃止などの一大改革が断行され、デンマークは近代国家への道を歩み始めた。 また、1661年以降、同君連合国という名の下に実質的なデンマークの隷属国としてその歴史を歩んできたノルウェーでは、ストルーエンセによって啓蒙思想が持ち込まれたことをきっかけに独立の機運が高まった。1784年にフレデリック6世により改革新政が布かれると市民勢力を中核とする独立運動が益々増大し、ブルンの独立歌が街中のいたるところで歌われるような状況になった。しかしながら武装中立同盟によってイギリスとの対立が深刻化し始めていたデンマークのあおりを受けてノルウェーの商船が度々拿捕され、貿易停止と海岸の封鎖によって食糧難に陥ってしまう。1814年、スウェーデンとデンマークの間でキール条約が締結されるとノルウェーの主権はスウェーデンへと移った。ノルウェーはこの併合を承認せず、クリスチャン・フレデリクを王に立てて独立を標榜した。これを受けてスウェーデンのカール・ヨハンはノルウェーへ侵攻し、1814年に武威を示してノルウェー国会にスウェーデンとの同君連合を承認せしめ、ノルウェーの独立運動は空しい結果に終わることとなった。
※この「啓蒙主義の時代」の解説は、「北欧史」の解説の一部です。
「啓蒙主義の時代」を含む「北欧史」の記事については、「北欧史」の概要を参照ください。
- 啓蒙主義の時代のページへのリンク