啓蒙専制主義と領土の拡大(1761年 - 1796年)
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詳細は「ピョートル3世 (ロシア皇帝)」、「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」、および「ポーランド分割」を参照 1761年12月25日にエリザヴェータが死去すると後継者に指名されていた甥のピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が即位した。ピョートル3世は貴族の支持を得るために国家勤務義務を廃止したが、プロイセン王フリードリヒ2世を崇拝する彼は優勢に進んでいた七年戦争から離脱してプロイセンと講和を結び(サンクトペテルブルク条約)、また正教会を圧迫したことで人々の反感を受けた。即位から僅か半年でクーデター(ロシア語版)が起き、ピョートル3世は廃位され、近衛隊や正教会の支持を受けた皇后エカチェリーナが皇帝に即位した。 皇帝に即位したエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)はドイツのアンハルト=ツェルプスト侯爵(英語版)家に生まれ、ロシア人の血を一滴もひかない女性だった。 学識が深く啓蒙君主を自任するエカチェリーナ2世は1766年に各身分の代表からなる新法典編纂委員会を組織させ、モンテスキューの『法の精神』やベッカリーアの『犯罪と刑罰』など西欧の啓蒙思想を盛り込んだ急進的な「訓令(英語版、ロシア語版)」(ナカース)を発するが、結局、成果を上げることはできなかった。エカチェリーナ2世は自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興と云った啓蒙思想に基づいた近代化諸政策に着手したがいずれも中途半端に終わっている。 エカチェリーナ2世は「訓令」で農奴制の緩和に言及していたが、実際には貴族の要求に応えて農奴制をいっそう強化させていた。このような農奴制の強化を社会的背景として、1773年にプガチョフの乱が勃発した。ピョートル3世を僭称するカザークのプガチョフは貴族の根絶を唱えてヤイク(ウラル地方)で反乱を起こした。カザークだけでなくバシキール人、カルムイク人そして不満を持った農民が参加して急速に数を増した。反乱軍はモスクワを脅かす程の勢力になったが、政府軍によって鎮圧されている。だが、革命の亡霊は彼女と後継者たちを脅かし続けることになる。 反乱の拡大は地方行政府の弱体にあると判断したエカチェリーナ2世は地方行政改革に着手し、「県行政令」を発布して貴族に地方行政を委ねただけでなく、エカチェリーナ2世は権力基盤である貴族の支持を確固としたものにするため、貴族に諸特権を与えた認可状を出して、広大な国有地を下賜している。この結果、多数の国有地農民が貴族の農奴となり、農奴制がさらに強化される事態となった。 対外的には1768年にオスマン帝国と開戦して勝利し、1774年に締結されたキュチュク・カイナルジ条約で黒海北岸部を割譲させ、またクリミア・ハン国をオスマン帝国の宗主権下から離脱させた(第一次露土戦争)。クリミア・ハン国は1783年にロシアに併合されている。併合した領土は「ノヴォロシア」(新ロシア)と呼ばれた。クリミア半島経営にはエカチェリーナ2世の寵臣であるポチョムキン将軍があたり、開拓と黒海艦隊建設が進められた。オスマン帝国とは1787年に再度開戦するが、イギリス・プロイセンがオスマン帝国を支援しており、さらにスウェーデンも参戦してロシアは二正面作戦を強いられた(第二次露土戦争、第一次ロシア・スウェーデン戦争)。スウェーデンとは以後内政に干渉しないことを条件に講和を成立させ、オスマン帝国とは1791年にヤッシーの講和を結びオデッサを含む黒海沿岸地域を獲得した。 また、保護国化が進んでいたポーランド・リトアニアには、即位の翌年に愛人のスタニスワフ・ポニャトフスキをポーランド国王に擁立するがポニャトフスキは国政改革に着手したため、エカチェリーナ2世を苛立たせた。このため、エカチェリーナ2世はポニャトフスキに圧力をかけるとともに保守派への支援を含め、ポーランド・リトアニアへの政治的支配を強めていった。その後、エカチェリーナ2世はオーストリア、プロイセンと共謀して1772年、1793年そして1795年に3度に渡ってポーランド・リトアニアを分割しており、ロシアの領土を西方に広げへて中欧に進出する。 啓蒙君主として知られるエカチェリーナ2世だが、1789年にフランス革命が勃発すると強い衝撃を受けて反動政策に転じ、自由主義思想を弾圧した。農奴制を批判した思想家ラジーシチェフはシベリア流刑に処されている。 1796年11月6日にエカチェリーナ2世が死去した時、彼女の拡張主義政策により、ロシアはヨーロッパ列強に加わっていた。
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