啓蒙思想の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:33 UTC 版)
啓蒙思想は17世紀イギリスではじまった。 ヴォルテールの「哲学書簡」やモンテスキューの「法の精神」により、啓蒙主義の考え方はフランスに渡り、後にフランスの絶対王政を批判するのに用いられた。ハプスブルク家のマリア・テレジア女帝、プロイセン王国のフリードリヒ大王、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世などが実践している。 18世紀に入り、当時フランスやイギリスに比べ遅れをとっていたドイツにおいてもこの考えを普及し、トマジウス、メンデルスゾーンやヴォルフやゴットシェートらを輩出。 ヴォルフは理性と啓示(神の教え)に矛盾がないことを説き、人々に人間としての理性でもって見る考え方を主張。ゴットシェートは、この影響を受け、ヴォルフのように啓示と理性を並存させるのではなく、啓示の内容は理性へと還元され、理性によって解明されうると考えた。 啓蒙思想に触発されたカントも「責任ある自己」の必要性と根拠付けを行った。カントによれば、Aufklärungとは「人間が自分自身に責任を持ち、未成年の状態から抜け出ることである。」そして、他人に依存することなく自身の悟性を使用する決断と勇気を身につけ、最後に「知ることを敢えてせよ!自己自身の悟性を使用する勇気を持て!」という標語に帰結されるとしている(カント"Was ist Aufklärung?"『啓蒙とは何か?』より)。この標語には、まず個人が自分自身の知性の行使に勇気をもつようになって初めて社会が改良され得るとの考えが背景にある。近隣諸国に経済的・文化的に遅れをとっていたドイツにおいて、啓蒙思想はより強く表現されたのである。一方で啓蒙思想は、国家・社会・宗教などあらゆるものに対して理性一辺倒主義で、数学的で平板的な合理主義的なのが特徴であった。 この考えは普及すると、やがて「理性ならざるもの」、すなわち感情や信仰あるいは生命的エネルギー(生そのもの)のような理性の枠に収まらないものへの説明に対しては、不十分なものであるということが露呈してきた(いわゆる生の哲学のはしりとも解せる)。この流れは反啓蒙思想の流れを生み出し、カントの友人であったドイツの詩人ハーマンなどに厳しく批判されたほか、ゲーテ・シラーなどの古典時代を規範とした、古典主義文学などに展開されていった。また、啓蒙思想に触発されたカントも、やがて批判哲学における著作(『純粋理性批判』など)でやがて理性の限界を論ずるようになり、啓蒙思想の超克を計った。しかし、この「自らの悟性を使用する決断と勇気」のあり方は、カント以降にドイツ観念論などの19世紀のドイツ哲学の課題であったともいえる。 このヨーロッパでおこった啓蒙思想は、その後の世界各国で普及した。また、近代教育学の成立にも影響を与えるなど、多大な影響をあたえた。
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