啓蒙専制君主たちの諸改革とは? わかりやすく解説

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啓蒙専制君主たちの諸改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「啓蒙専制君主たちの諸改革」の解説

啓蒙専制君主」も参照 上述たようにプロイセン王国ではユグノー派受け入れており、宗教多元的な国家となっていた。1730年敬虔なカルヴァン派信仰持ち主であった軍人王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世ユダヤ人基本法発して在住ユダヤ人権利制限した軍事国家プロイセン強大化に尽力したヴィルヘルムはおよそ学芸無関心な無骨なであったが、先代創設したハレ大学国家経営学講座設け行政官僚の養成努めている。18世紀プロイセンは、国家規模不釣り合いな軍隊ヨーロッパで最も高い税金と「プロイセン倹約」によって維持し活用して成果上げ一方で無制限ともいえる移民受け入れており、実際に軍国主義博愛主義は密接に関連しあっていた。18世紀プロイセン19世紀のアメリカのように、ヨーロッパ各地から迫害軽侮軽蔑受けた人たちの避難所となっており、他のドイツ諸邦伝統的なヨーロッパの大国とは異な人工国家要素をもっていた。 父「軍人王」とは対照的に学芸関心深くヴォルテールとも親交のあった啓蒙専制君主で「哲人王」と称されたのが、フリードリヒ2世フリードリヒ大王)である。王子時代にラインスベルク(英語版)で書いた反マキャヴェッリ論』(1739年)の「君主国家第一下僕」の一節が特に有名で、フリードリヒは同著で社会契約説にもとづく国家理論展開している。父「軍人王」が国家世襲財産とみなす家産制的な国家観立っていたのに対しフリードリヒ国家契約によって成り立つ永続的な組織とみなし、支配者国家福利奉仕するのであるという国家観表明した即位後はポツダムロココ風の典雅なサンスーシ宮殿を建て、自らも設計たずさわった。ここには、ヴォルテールルネ・デカルトピエール・ベールジョン・ロックなどの著作を含む3千冊以上の蔵書からなる図書室もあった。フランス語で「憂いなしサンスーシ)」と名づけられたこの宮殿には多くフランス人学者招かれ、彼らとフリードリヒフランス語語らった1750年フリードリヒ改定特権規則基本法ユダヤ人権利資格6つの級に区分している。1級一般的特権2級正規保護3級臨時保護4級コロニー公務員5級恩情による居住許可6級保護状を持つユダヤ人使用人であり、国家にとって有用かどうかによって格差設けられた。キリスト教徒に対しては「みな同じ国の民である」と述べ寛容策によって臣民統合図った大王治下プロイセン民族国家ではなく単なる国家、いわば「理性国家」であり、万人開かれ万人に平等の権利、そして平等の義務があるとされた。フリードリヒ大王1745年シュレージェン地方を、1772年ポーランド一部併合したときには新しく臣民となったカトリック教徒対し信教の自由市民権保障している。 1788年フリードリヒ2世後継者であるフリードリヒ・ヴィルヘルム2世家臣任命にあたり信仰する宗教問わないとする勅令公布した政治的に一貫せず、父とは異なり啓蒙思想弾圧したプロイセン宗教寛容策は周囲にも影響およぼしており、バイエルンドイツにおけるカトリック本拠地のひとつであったが、1777年プロテスタントプファルツ選帝侯領併合する際し、その宗教的諸権利行使保障したハプスブルク帝国オーストリア)では、女帝マリア・テレジア啓蒙主義関心を示さなかったのに対しその後継いだ長子ヨーゼフ2世は母の宿敵だったプロイセンフリードリヒ大王崇拝し、「啓蒙主義申し子」と呼ばれたヨーゼフは「ヨーゼフ主義(ヨセフスムス)」と呼ばれる一連の宗教政策展開した。これは従来教会儀礼先頭立って執り行ってきたハプスブルク家姿勢からは大きな転換であり、カトリック教会帝国への従属目指し国家による反教権主義表明であったヨーゼフ2世観想修道会廃止命じ閉鎖した700におよぶ修道院財産学校創設慈善事業基金充てられた。「迷信」と戦うためには聖職者にも近代教育授け必要があるとして「一般神学校」を大学管轄の下に創設したうえ、ウィーンに2千人収容可能の総合病院開設した1781年ヨーゼフあらゆる信教の自由認め画期的な宗教寛容令英語版ドイツ語版)を発し帝国宗教多元性を打ち立てている。これにより、プロテスタント東方正教会を含む公認宗教制度創出され、各教派はすべて学校開設する権利をもつほか、あらゆる就業機会においてカトリック信者同等平等性確立された。これはユダヤ人をも対象含み同化政策目的したものであったが、実際にユダヤ教徒待遇大きく改善されており、1783年には民事における結婚と離婚が可能となっている。ヨーゼフフリードリヒ大王象徴されるドイツ諸君主のフランス文化崇拝風潮際し例外的にドイツ語話し書きをおこなってドイツ文化愛好したが、ハンガリー地域へもドイツ語強制したためにハンガリー人民族感情反発し各地暴動や一揆が頻発したヨーゼフ1781年農奴解放令発布しているがその改革はいずれ性急で、成果をあげるための訓練欠いていたと評される一方死刑の廃止など現代からみても先進的な取り組みなされたのも事実であったロシア帝国では、ヴォルテールシャルル・ド・モンテスキュー愛読者でもある女帝エカチェリーナ2世臣民法典授けようと、1767年貴族商人国有地農民など各身分の代表を集めて新法編纂委員会(ロシア語版)を開いた開催の際に読み上げられエカチェリーナ統治理念が、「訓令英語版ロシア語版)(ナカース)」である。その内容は、全体の4分の3がモンテスキュー法の精神』やチェーザレ・ベッカリーア犯罪と刑罰』など啓蒙思想家からの引用占められていた。しかし、新法典の編纂編纂委員会がこのような作業慣れておらず、露土戦争差し迫っていたので、そのまま立ち消えとなった1773年エカチェリーナは「すべての宗教対す寛容と、(ロシア正教会の)主教の、非正教会信仰問題への干渉禁止」と命名され勅令発したが、彼女自身はこの不干渉実際には守ることなくカトリック教会東方典礼カトリック教会東方帰一教会、ユニアト)の聖職者たちにローマ教皇庁かかわりをもつことを禁じた。その一方ユダヤ教徒には1786年一定程度権利認め1788年に「イスラーム宗教会議」を設立したエカチェリーナドゥニ・ディドロ親交を結ぶなど、当初は「帝位啓蒙家」たるべく努めロシアの農奴制に対して批判的農民同情的態度をとってきたが、プガチョフの反乱機に貴族帝国強化図り、その鎮圧には厳し態度臨んだ啓蒙専制主義は、政教分離推し進める際の強権的手法代表している。啓蒙専制君主は、もはや教会を独自の権力とは見なさず、君主によって支配され統制される組織であると主張しそれゆえに彼らは宗教一般がもつ多元に対してみずからは相対的に寛容であることを示し得たのである

※この「啓蒙専制君主たちの諸改革」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「啓蒙専制君主たちの諸改革」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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