啓蒙専制君主たちの諸改革
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「啓蒙専制君主たちの諸改革」の解説
「啓蒙専制君主」も参照 上述したように、プロイセン王国ではユグノー派を受け入れており、宗教多元的な国家となっていた。1730年、敬虔なカルヴァン派の信仰の持ち主であった「軍人王」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はユダヤ人基本法を発して在住ユダヤ人の権利を制限した。軍事国家プロイセンの強大化に尽力したヴィルヘルムはおよそ学芸に無関心な無骨な王であったが、先代が創設したハレ大学に国家経営学の講座を設け、行政官僚の養成に努めている。18世紀のプロイセンは、国家規模に不釣り合いな軍隊をヨーロッパで最も高い税金と「プロイセンの倹約」によって維持し、活用して成果を上げる一方で無制限ともいえる移民を受け入れており、実際には軍国主義と博愛主義は密接に関連しあっていた。18世紀のプロイセンは19世紀のアメリカのように、ヨーロッパ各地から迫害、軽侮、軽蔑を受けた人たちの避難所となっており、他のドイツ諸邦や伝統的なヨーロッパの大国とは異なる人工国家の要素をもっていた。 父「軍人王」とは対照的に学芸に関心深く、ヴォルテールとも親交のあった啓蒙専制君主で「哲人王」と称されたのが、フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)である。王子時代にラインスベルク(英語版)で書いた『反マキャヴェッリ論』(1739年)の「君主は国家第一の下僕」の一節が特に有名で、フリードリヒは同著で社会契約説にもとづく国家理論を展開している。父「軍人王」が国家を世襲財産とみなす家産制的な国家観に立っていたのに対し、フリードリヒは国家を契約によって成り立つ永続的な組織とみなし、支配者は国家の福利に奉仕するものであるという国家観を表明した。即位後はポツダムにロココ風の典雅なサンスーシ宮殿を建て、自らも設計にたずさわった。ここには、ヴォルテール、ルネ・デカルト、ピエール・ベール、ジョン・ロックなどの著作を含む3千冊以上の蔵書からなる図書室もあった。フランス語で「憂いなし(サンスーシ)」と名づけられたこの宮殿には多くのフランス人学者が招かれ、彼らとフリードリヒはフランス語で語らった。1750年、フリードリヒは改定特権規則基本法でユダヤ人の権利と資格を6つの級に区分している。1級は一般的特権、2級は正規保護、3級は臨時保護、4級はコロニー公務員、5級は恩情による居住許可、6級は保護状を持つユダヤ人の使用人であり、国家にとって有用かどうかによって格差が設けられた。キリスト教徒に対しては「みな同じ国の民である」と述べ、寛容策によって臣民の統合を図った。大王の治下、プロイセンは民族国家ではなく単なる国家、いわば「理性国家」であり、万人に開かれ、万人に平等の権利、そして平等の義務があるとされた。フリードリヒ大王が1745年にシュレージェン地方を、1772年にポーランドの一部を併合したときには新しく臣民となったカトリック教徒に対し、信教の自由と市民権を保障している。 1788年、フリードリヒ2世の後継者であるフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は家臣の任命にあたり、信仰する宗教を問わないとする勅令を公布したが政治的には一貫せず、父とは異なり啓蒙思想を弾圧した。 プロイセンの宗教寛容策は周囲にも影響をおよぼしており、バイエルンはドイツにおけるカトリックの本拠地のひとつであったが、1777年にプロテスタントのプファルツ選帝侯領を併合するに際し、その宗教的諸権利の行使を保障した。 ハプスブルク帝国(オーストリア)では、女帝マリア・テレジアが啓蒙主義に関心を示さなかったのに対し、その後を継いだ長子のヨーゼフ2世は母の宿敵だったプロイセンのフリードリヒ大王を崇拝し、「啓蒙主義の申し子」と呼ばれた。ヨーゼフは「ヨーゼフ主義(ヨセフスムス)」と呼ばれる一連の宗教政策を展開した。これは従来、教会儀礼を先頭に立って執り行ってきたハプスブルク家の姿勢からは大きな転換であり、カトリック教会の帝国への従属を目指した国家による反教権主義の表明であった。ヨーゼフ2世は観想修道会の廃止を命じ、閉鎖した約700におよぶ修道院の財産は学校創設や慈善事業の基金に充てられた。「迷信」と戦うためには聖職者にも近代教育を授ける必要があるとして「一般神学校」を大学の管轄の下に創設したうえ、ウィーンに2千人収容可能の総合病院を開設した。1781年、ヨーゼフはあらゆる信教の自由を認める画期的な宗教寛容令(英語版、ドイツ語版)を発し、帝国に宗教多元性を打ち立てている。これにより、プロテスタントや東方正教会を含む公認宗教の制度が創出され、各教派はすべて学校を開設する権利をもつほか、あらゆる就業機会においてカトリック信者と同等の平等性が確立された。これはユダヤ人をも対象に含み、同化政策を目的としたものであったが、実際にユダヤ教徒の待遇も大きく改善されており、1783年には民事における結婚と離婚が可能となっている。ヨーゼフはフリードリヒ大王に象徴されるドイツ諸君主のフランス文化崇拝の風潮に際し、例外的にドイツ語で話し書きをおこなってドイツ文化を愛好したが、ハンガリー地域へもドイツ語を強制したためにハンガリー人の民族感情は反発し、各地で暴動や一揆が頻発した。ヨーゼフは1781年に農奴解放令を発布しているがその改革はいずれも性急で、成果をあげるための訓練も欠いていたと評される一方、死刑の廃止など現代からみても先進的な取り組みがなされたのも事実であった。 ロシア帝国では、ヴォルテールやシャルル・ド・モンテスキューの愛読者でもある女帝エカチェリーナ2世が臣民に法典を授けようと、1767年に貴族や商人、国有地農民など各身分の代表を集めて新法典編纂委員会(ロシア語版)を開いた。開催の際に読み上げられたエカチェリーナの統治理念が、「訓令(英語版、ロシア語版)(ナカース)」である。その内容は、全体の4分の3がモンテスキュー『法の精神』やチェーザレ・ベッカリーア『犯罪と刑罰』など啓蒙思想家からの引用で占められていた。しかし、新法典の編纂は編纂委員会がこのような作業に慣れておらず、露土戦争も差し迫っていたので、そのまま立ち消えとなった。1773年、エカチェリーナは「すべての宗教に対する寛容と、(ロシア正教会の)主教の、非正教会の信仰問題への干渉禁止」と命名された勅令を発したが、彼女自身はこの不干渉を実際には守ることなく、カトリック教会や東方典礼カトリック教会(東方帰一教会、ユニアト)の聖職者たちにローマ教皇庁とかかわりをもつことを禁じた。その一方、ユダヤ教徒には1786年に一定程度の権利を認め、1788年に「イスラーム宗教会議」を設立した。エカチェリーナはドゥニ・ディドロと親交を結ぶなど、当初は「帝位の啓蒙家」たるべく努め、ロシアの農奴制に対しても批判的で農民に同情的態度をとってきたが、プガチョフの反乱を機に貴族帝国の強化を図り、その鎮圧には厳しい態度で臨んだ。 啓蒙専制主義は、政教分離を推し進める際の強権的な手法を代表している。啓蒙専制君主は、もはや教会を独自の権力とは見なさず、君主によって支配されて統制される組織であると主張し、それゆえに彼らは宗教一般がもつ多元性に対してみずからは相対的に寛容であることを示し得たのである。
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