第二次露土戦争とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第二次露土戦争の意味・解説 

露土戦争 (1676年-1681年)

(第二次露土戦争 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/20 01:00 UTC 版)

露土戦争
露土戦争
1676年 - 1681年
場所黒海北岸地域
結果 引き分け
衝突した勢力
ロシア・ツァーリ国
ヘーチマン国家
左岸ウクライナ
オスマン帝国
クリミア・ハン国
ヘーチマン国家
右岸ウクライナ
指揮官
フョードル3世
グレゴリー・ロモダノフスキー
イヴァン・サモイロヴィッチ
メフメト4世
イブラヒム・パシャトルコ語版ポーランド語版
カラ・ムスタファ・パシャ
セリム・ギレイ1世
ムラト・ギレイ
ペトロ・ドロシェンコ

露土戦争は、1676年から1681年にかけてロシア・ツァーリ国オスマン帝国の間で行われた戦争である。17世紀後半のオスマン帝国の拡張政策に起因して起こった。

戦争の経緯

ウクライナ西部のポジーリャ1672年から1676年までの間行われたポーランド・オスマン戦争(en)でオスマン帝国に占領され荒廃した。オスマン帝国政府は、右岸ウクライナ(ウクライナ北西部・ドニエプル川右岸地域)のウクライナ・コサックヘトマンであったペトロ・ドロシェンコによる支持を受け、1669年より右岸ウクライナ全土にオスマン帝国の法律を広めるように努めたこの親トルコ政策は多くのウクライナ・コサックの間で不満を引き起こし、1674年に唯一の全ウクライナのヘトマンとして左岸ウクライナ(ウクライナ南東部・ドニエプル川左岸地域)のヘトマンであったイヴァン・サモイロヴィッチ(en)を選んだ。

ドロシェンコはこれに反撃を行うことを決め、1676年に12,000人の兵を率い、かつてコサック国家の首都であり当時はチヒルィーン連隊の中心地であったチヒルィーンの町を占領し、隣接するオスマン帝国のトルコ・タタール軍の加勢を期待した。しかし、サモイロヴィチ率いるウクライナ軍及びグレゴリー・ロモダノフスキー(en)率いるロシア軍がチヒルィーンに押し寄せ、ドロシェンコは降伏、ロシア・ウクライナ軍はチヒルィーンに駐屯軍を残してドニエプル川の左岸へと退いた。オスマン帝国のスルタンメフメト4世はドロシェンコの代わりに、当時スルタンの捕虜であったユーリ・フメリニツキー(en)を右岸ウクライナのヘトマンに指定した。

1677年7月、メフメト4世はイブラヒム・パシャに120,000人の軍を率いてチヒルィーンに進軍するように命令し、8月4日にチヒルィーンに到着した。サモイロヴィッチ及びロモダノフスキーの軍も10日に集結し、24日までにスーラ川を渡河してチヒルィーンに到着した。

26日から27日にかけて両軍が小競り合いを始めたが、戦闘でオスマン帝国軍の監視所が壊滅したため、ロシア・ウクライナ軍の渡河が容易となり、ロシア・ウクライナ軍はオスマン帝国軍を圧倒し、28日にはイブラヒムのキャンプを攻撃して多数の死傷者を与えた。翌29日、イブラヒムはチヒルィーンの包囲をやめてイグル川に撤退[1]。オスマン帝国軍は20,000人の兵を失い、イブラヒムはコンスタンティノープルへの帰還と共に収監された[2]

1678年7月、大宰相カラ・ムスタファ・パシャに率いられた80,000人のオスマン帝国軍は再びチヒルィーンへと押し寄せた[2]。200,000人のロシア・ウクライナ軍はオスマン帝国軍の防衛線を突破したが、既にチヒルィーンは11日にオスマン帝国軍に占領されていた。ロシア軍はドニエプル川を越えて撤退し、追撃するオスマン帝国軍を撃退し、戦闘は沈静化した。

1679年から1680年にかけてロシア軍はクリミア・タタール人の攻撃を撃退し、1681年1月にバフチサライ条約に調印した。この条約によってオスマン帝国とロシアの国境がドニエプル川によって確定された[3]

注釈

  1. ^ Davies (2007), p 160
  2. ^ a b Davies (2007), p 161
  3. ^ Paxton (2004), p 195

参考文献

  • Davies, Brian L., Warfare, state and society on the Black Sea steppe, 1500-1700, ラウトレッジ, 2007., ISBN 0415239869
  • Paxton, John and John Traynor, Leaders of Russia and the Soviet Union, Taylor & Francis Books Inc., 2004., ISBN 1579581323

第二次露土戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 05:36 UTC 版)

アレクサンドル・スヴォーロフ」の記事における「第二次露土戦争」の解説

1787年ロシアオスマン帝国への領土割譲要求きっかけに再び露土戦争勃発した(第二次露土戦争)。スヴォーロフ30,000名の軍を率いてドニエプル河口にあった10月17日オスマン軍がキンブルン岬(英語版)のキンブルン要塞攻撃仕掛けてきたが(キンブルンの戦い英語版))、これを撃退した。この攻防戦最中スヴォーロフは尻と腕を負傷している。傷が癒えたスヴォーロフは、1788年8月7日からオチャーコフウクライナ語版)要塞包囲しオチャーコフ包囲戦)、1789年2月、6ヵ月間にわたる攻防戦の末に陥落させた。また、この最中にもスヴォーロフは首を負傷している。 1789年8月12日スヴォーロフフォクシャニオスマン軍撃破しエカチェリーナ2世から聖アンドレイ勲章授与された。1789年9月22日ロシア軍神聖ローマ帝国軍と連合しルムニク・サラトオスマン軍撃破したこの際神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世戦場にいたが、指揮スヴォーロフが執っている。エカチェリーナ2世勝利を祝福してスヴォーロフにルムニク伯の爵位授け、さらに自身の名を爵位添えることを許したまた、ヨーゼフ2世神聖ローマ帝国における伯爵位を授けた1790年スヴォーロフオスマン帝国の重要拠点であるイスマイル要塞攻撃した。この攻防戦において、ミハイル・クトゥーゾフは、要塞稜堡5度にわたる果敢な攻撃仕掛けた12月21日イスマイル要塞陥落スヴォーロフエカチェリーナ2世への報告の中で、陥落クトゥーゾフ功績であると述べたこのためクトゥーゾフ脚光を浴びるようになった事実上、この時点ロシア勝利確定しており、スヴォーロフの力が必要とされる場面なくなっていた。このため戦争中抑えられていた、総司令官ポチョムキンとの反目表面化してきた。ポチョムキンエカチェリーナ寵臣で、その縁を利用して総司令官収まっていたが、軍事的に凡庸な人物であった。そのため、スヴォーロフとは戦略めぐって幾度も対立したまた、ポチョムキンは、イズマイル要塞陥落の功を自分もののよう宣伝しており、スヴォーロフ公然とこれを非難していた。 このような軋轢があったため、1791年4月スヴォーロフは突然スウェーデンとの国境地帯守備する軍の司令官左遷された。さらに7月にはカレリア要塞司令官異動となった一方露土戦争は、1792年1月9日ヤシ条約締結され終結したロシアオスマン帝国から黒海周辺領土獲得し一挙に版図拡大した1792年12月スヴォーロフウクライナ軍司令官任じられ、再び最前線で軍の指揮を取ることとなった。これは前年ポチョムキン死亡したためであった

※この「第二次露土戦争」の解説は、「アレクサンドル・スヴォーロフ」の解説の一部です。
「第二次露土戦争」を含む「アレクサンドル・スヴォーロフ」の記事については、「アレクサンドル・スヴォーロフ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第二次露土戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第二次露土戦争」の関連用語

第二次露土戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第二次露土戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの露土戦争 (1676年-1681年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアレクサンドル・スヴォーロフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS