左岸ウクライナとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 左岸ウクライナの意味・解説 

左岸ウクライナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/26 14:49 UTC 版)

左岸ウクライナ

  左岸ウクライナの地図(18世紀)。

チェルニーヒウの生神女就寝修道院。

左岸ウクライナ(さがんウクライナ;ウクライナ語Лівобережна Україна)は、ウクライナを経て黒海に注ぐドニプロ川の左岸(東岸)に広がるウクライナの歴史的地名である。現在のキーウ州チェルカースィ州の東部、チェルニーヒウ州ポルタヴァ州、およびキーウの周辺にあたる地域である。

概要

「左岸ウクライナ」という地名は17世紀後半以降の史料で見られる。1667年アンドルーシウ条約によりウクライナのコサック国家ポーランドロシアの間に分割されると、キエフを含むドニプロ川の左岸に位置するコサック国家の領土はロシアの支配下に置かれ、「左岸ウクライナ」と呼ばれるようになった。

左岸ウクライナにおいてヘーチマンを棟梁とするコサックの自治制が存在していたが、1709年大北方戦争中にヘーチマンのイヴァン・マゼーパが反ロシアの放蜂起を起こしたことによりコサックの自治権が大きく削減され、1722年にヘーチマンの政府が廃止された。1734年までにコサックの統制を行ったのはロシア政府の機関、小ロシア委員会であった。その後ヘーチマン政府は、一時期に回復されたものの、1764年に最終的に廃止されることとなった。このことによりコサック国家は事実上亡ぼされ、1781年にコサックの地域においてチェルニーヒウ代官地、ノーヴホロド・シーヴェルシクィイ代官地、キエフ代官地が設置された。さらに、1796年に当代官地は小ロシア県として統一されたが、1802年に当県はチェルニゴフ県ポルタヴァ県に分割された。

1917年に左岸ウクライナはウクライナ人民共和国の一部となったが、1918年から1919年にかけて続いたウクライナの内戦期の末にボリシェヴィキ系のウクライナ・ソビエト社会主義共和国の領土となった。

現在、1991年ソ連から独立したウクライナが左岸ウクライナを所有している。しかし、チェルニーヒウ地方の一部であるスタロドゥブの地域はロシアベラルーシの支配下に置かれている。

参考文献

  • (日本語) 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』/ 伊東孝之,井内敏夫,中井和夫. 山川出版社, 1998.12.(新版世界各国史 ; 20)

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「左岸ウクライナ」の関連用語

左岸ウクライナのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



左岸ウクライナのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの左岸ウクライナ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS