リトアニア・ポーランド版図の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:58 UTC 版)
「ペレヤスラウ (都市)」の記事における「リトアニア・ポーランド版図の時代」の解説
14世紀にリトアニア大公国に併合され、1569年にポーランド・リトアニア共和国のポーランド領となった。 1585年、ポーランドの王ステファン・バートリにより、ペレヤスラウはオストログスキ家の管理となった。同じ年、ペレヤスラウにマクデブルク法が適用され自治権を得た。 16世紀末以降、ペレヤスラウ地域はウクライナ・コサックの活動地帯となり、17世紀半ばに至るまでポーランド政府に対するコサックの反乱の本拠地となった。1648年、フメリニツキーの乱が勃発すると、ペレヤスラウにはコサック国家のペレヤースラウ連隊がおかれた。1654年にコサック国家とロシア・ツァーリ国との間で行われたペラヤースラウ会議は、ロシア・ポーランド戦争の直接原因となったと同時に、ウクライナのロシアへの隷属の始まりとも解釈されており、運命の分かれ道となった。この戦争の結果、1667年のアンドルソヴォ条約によりキーウ、ペレヤスラウを含む左岸ウクライナはロシア領となった。
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