リトアニア人の協力
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「リトアニアにおけるホロコースト」の記事における「リトアニア人の協力」の解説
ナチス・ドイツ当局はリトアニア・ユダヤ人の組織的殺戮を指示、支援し、現地のリトアニア人協力者がその指示のもと計画を実行していった。1941年6月25日、ナチス親衛隊のフランツ・ヴァルター・シュターレッカー少将がカウナス(コヴノ)に到着し、ユダヤ人殺害をあおる内容の演説を行った。演説は当初旧国家公安局の建物で行う予定であったが関係者はそれを拒否、結局彼は街中で演説を行った 。10月15日の報告書の中でシュターレッカーは、先遣隊による行為の事実はうまく隠され、あたかも現地住民が自発的に行ったことであるかのように見せかけることに成功したと書いている。ソヴィエト併合に抵抗していた民族主義者集団のパルチザンは、リトアニアに入るやいなやすぐにドイツ当局と連絡を取り合うようになった。1941年6月25日の夜から26日にかけて、アルギルダス・クリマイティス (Algirdas Klimaitis) 率いる暴徒の群れがカウナスでユダヤ人に対しポグロム(殺戮)を起こし、ナチス保安警察 (SiPo) や親衛隊情報部 (SD) もそれを奨励した。これがナチス占領下のリトアニアで起きた最初のポグロムで、数日のうちに 1,000 人を超すユダヤ人が殺された。なお、このときの被害者の数を 1,500 人とする説や、周辺の都市での犠牲者と合わせて 3,800 人とする説もある。 1941年6月24日、ナチスの保安警察や刑事警察の補助機関としてリトアニア保安警察(リトアニア語: Lietuvos saugumo policija)が設立された。リトアニア保安警察は、ユダヤ人やその他ナチス政権にとっての敵対勢力に対して様々な行為を行った。ナチスの司令官は報告書の中で、リトアニア警察隊の「熱意」は自分たちのものより上回ると記している。リトアニア人部隊が関わったものの中で最もよく知られたホロコーストはヴィリニュス(ヴィルナ、ヴィルノ)近郊のポナリ(ポーランド語: Ponary、リトアニア語: Paneriai パネレイ)でリトアニア特別部隊(リトアニア語: Ypatingasis būrys)が起こしたもので、ユダヤ人やポーランド人など合わせて数千人が犠牲となった。またリトアニア労働警護隊もホロコーストに関わった。ナチスの政策に同調したリトアニア人の多くはファシスト団体「鉄の狼」に所属していた。概して言えば、当時の民族主義的なリトアニア政権は「リトアニア民族にとっての潜在的な敵」であるユダヤ人の一掃に関心を寄せており、したがってナチスのホロコースト政策に反対するどころか実際にはむしろそうした政策を取り入れていったのであった 。 リトアニア人がユダヤ人に対するジェノサイドに関与したのにはいくつかの要因が挙げられる。他の中東欧諸国と同様に当時の伝統や価値観には反ユダヤ主義的な要素が含まれていた。また当時のリトアニア人はリトアニア人だけで構成する「純粋な」国民国家を築き上げることを望んでいた。他にも、厳しい経済状況によりユダヤ人の私有財産をめぐって殺害が行われたという側面もあった 。そして何よりユダヤ人はソヴィエト政権に協力していると見られていた。ドイツがリトアニアを支配するまでのあいだ、リトアニアに降りかかった災難のすべてがユダヤ人のせいとされていた。 「ユダヤ・ボリシェヴィズム」 (Jewish Bolshevism) に関するプロパガンダはナチスによって意図的に広められ、リトアニア人の反ユダヤ主義を煽っていった。こうしたプロパガンダはナチス占領以前にもリトアニア行動戦線によっても作られていた。ソヴィエト政権に抵抗していたリトアニア人行動主義戦線は、リトアニア人よりユダヤ人の方がソヴィエト政権の支持者が多いという事実を利用して、こうしたプロパガンダを展開していったのであった。こうしてソヴィエト支配下やその後のリトアニアの災難はすべてユダヤ人のせいだという「神話」が作られていった。当時のリトアニア行動戦線のパンフレットには以下のように書かれていた。 リトアニア民族のイデオロギー的成熟のためには、反共主義的、反ユダヤ主義的な行動を強化すべきである。[…]ユダヤ人を片付けるのにこの機会を利用することもまた重要だ。ユダヤ人には誰一人として最小限の権利も生存の可能性もないと思わせるほどに、ユダヤ人にとって息苦しい環境を我々は作らなければならない。我々の目的はアカのロシア人とともにユダヤ人も追い払うことである。[…](ユダヤ人が)リトアニア民族を何度も圧政者に売り渡したために、ヴィータウタス大公によってユダヤ人に施されたもてなしは、これによって永遠に廃止となる。 実際、リトアニア人行動主義戦線の中で活動していたアウグスティナス・ヴォルデマラス (Augustinas Voldemaras) を支持する過激派は、人種主義的な「アーリア人の」リトアニア国家建設を心に描いていた。ドイツ占領が始まるにあたりカウナスの新聞『自由のために』は猛烈な反ユダヤ運動を開始、「ユダヤとボリシェヴィズムは同一で、不可分なものの一部分にすぎない」などという表現を用いてユダヤと共産主義が同一であるという人々の認識を強めた。 比較的多くの現地住民、現地機関がリトアニア・ユダヤ人コミュニティの破壊に関与したことは、リトアニアのホロコーストを特徴づける重要な要素のひとつである。 もちろん全てのリトアニア人がユダヤ人殺害を支持していたわけではない。約300万人の人口(そのうち 80 % がリトアニア人)のうち数千人が殺害に関わったが、他方でユダヤ人保護のために危険を冒した者も数百人いた。戦後、イスラエル政府はユダヤ人救出のために危険を冒した 723 名のリトアニア人に対して「諸国民の中の正義の人」の称号を与えている。なおこの称号は、当時リトアニアでユダヤ人に査証を発行したことで知られる杉原千畝にも送られている。また、多くのポーランド系住民もユダヤ人保護の手助けをした。彼らを救おうとして危険を冒したリトアニア人やポーランド人はナチスからの迫害を受け、また多くの場合処刑された。
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