ポーランド・ロシア戦争
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ポーランド・ロシア戦争(ポーランド・ロシアせんそう)は、ポーランドとロシアの間で戦われた諸戦争の一覧。
- 1 ポーランド・ロシア戦争とは
- 2 ポーランド・ロシア戦争の概要
ロシア・ポーランド戦争
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「11月蜂起」の記事における「ロシア・ポーランド戦争」の解説
リトアニアを主戦場にしようというポーランド側の構想は実現させるのが遅すぎた。数日後、陸軍元帥ハンス・カール・フォン・ディービッチュが率いる11万5000のロシア軍の精鋭がポーランド国境を通過した。最初の大規模な戦いは1831年2月14日、ウツク近郊のストチェク村で起きた。このストチェクの戦いで、准将ユゼフ・ドヴェルニツキ麾下のポーランド騎兵隊は敵将テーオドル・ガイスマル率いるロシア部隊を打ち負かした。しかしこの勝利は多くの犠牲を出して勝ち取られたもので、さらにロシアのワルシャワへの進軍を押しとどめることは出来なかった。ドブレ、ヴァヴェル、ビャウォウォンカでの戦いは、両軍とも決定的な勝利を得られなかった。 ポーランド軍は首都防衛のためヴィスワ川の右岸に集結した。2月25日、およそ4万人のポーランド軍分隊はワルシャワの東で6万のロシア軍と衝突し、オルシンカ・グロホフスカの戦いが始まった。両軍は2日近くの激戦の末に多くの犠牲者を出して、双方とも撤退した。7000人のポーランド兵が戦死したが、ロシア軍側の戦死者はおそらくさらに多かった。ディービッチュはシェドルツェへの撤退を余儀なくされ、ポーランド軍はワルシャワ防衛に成功した。 フウォピツキは一連の戦いで勇猛さを発揮したものの、オルシンカの戦いで負傷してしまい、司令官の地位をヤン・スクシネツキに譲った。スクシネツキはフウォピツキと同様、ナポレオンの下で武功を立てて名声を得た人物で、やはりコンスタンチン大公に煙たがられて退役していた。スクシネツキもやはりロシアとの戦争を無益と確信していたものの、軍を率いてグロホフの戦いを勝利に導いた。無能で決断力のないミハウ・ゲデオン・ラジヴィウが独裁官を退くと、スクシネツキが後継者とされた。彼はロシアの軍司令官との交渉によって戦争を終わらせようとし、ポーランドに有利な形で外国が調停に出てくることを望んでいた。 ポーランドの自由回復の悲願はヨーロッパ中から大きな共感を得た。パリではラファイエット侯爵の主催でポーランドを熱狂的に支持する集会が開かれた。アメリカ合衆国ではポーランド独立の大義のため、募金が集められた。しかしフランス政府とイギリス政府はこれを快く思わなかった。ルイ・フィリップは自身の新政権がヨーロッパ諸国に正統な政府として認められることばかり気にしており、パーマストン卿は親ロシア派で知られていた。イギリスはこの事件がフランスの革命精神の再覚醒につながるのを恐れたし、ロシアが弱体化するのを望まなかった。パーマストンは述べている、「ヨーロッパは秩序という大義のために間もなくロシアの国際貢献を必要とするだろう、そしてポーランドがフランスと同盟を結び、フランス領ヴィスワ県になってしまうのは避けねばならない」。オーストリアとプロイセンはロシアに好意的な形での中立を選択した。2国は自らの領有するポーランド地域を封鎖し、一切の軍需品を立憲王国内に持ち込ませないようにした。 こうした状況下で、ロシアとの戦争には暗く不安な見通しが立ち始めた。ポーランド人たちは必死に戦い、ヴォウィン(ヴォルィーニ)、ポドレ(ポジーリャ)、ジェマイティヤ、リトアニアを反乱に駆り立てようとした。若き伯爵夫人エミリア・プラテルと数人の将軍たちが起こしたリトアニアでの蜂起を除けば、こうした旧ポーランド・リトアニア共和国領の辺境地域でのゲリラ戦は大した効果をもたず、ロシアに地域の活力を殺ぐ機会をいたずらに与えただけになった。中でも、ロシア軍の悪名を高くしたのはリトアニアのオシュミャナ(アシミャヌィ)という小都市での住民に対する虐殺だった。一方、ポーランドにはミハイル・パヴロヴィチ大公に率いられた新たなロシア軍が到着したが、ポーランド人に何度も敗北していた。しかし恒常的な戦争と、8000人のポーランド兵が命を落としたオストロウェンカの戦いのような血腥い戦闘が繰り返された結果、ポーランド軍はかなりの消耗を見せ始めた。将軍たちの失策や相次ぐ交替と辞職、外国の調停を望む総司令官のやる気のなさなどが、軍隊の間の絶望感をさらに助長した。 最も急進的な民主派は、臨時政府内の混乱の結果生じた決断力の不足のみならず、臨時政府が農地改革に消極的なことや農民の土地保有権を認めないことを批判し始めた。しかしセイムは、ロシアとの戦争がヨーロッパ諸国に社会的な「革命」だと見なされることを恐れ、急進派への譲歩を引きのばしてこの問題を棚上げにしていたのである。このため当初は烈しかった農民たちの戦争への熱狂は醒めてゆき、国民政府の消極性が露呈しはじめた。 この時期、ロシア軍では戦病死したディービッチュに代わってイヴァン・パスケヴィチ将軍が指揮を任され、ワルシャワの包囲に取りかかった。スクシネツキはロシア軍の結集を止めることに失敗し、セイムは彼を総司令官から罷免してヘンリク・デンビンスキ将軍に一時的に総指揮を執らせるよう求める市民の要求を呑んだ。状況はすっかり様変わりしていた。暴動が発生し、政府は混乱を来していた。ヤン・クルコヴィエツキ伯爵が新たに統治評議会の首班となった。彼はポーランドの軍事的勝利をほとんど信じていなかったが、この熱狂状態を鎮めればより有利な条件で戦争を終わらせることが出来ると考えていた。 ユゼフ・ソヴィンスキ将軍の決死の防衛も空しく、ワルシャワ郊外のユダヤ人の自治都市ヴォーラが9月6日にパスケヴィチの手に落ちた。翌日、ワルシャワ防衛軍の第2戦線がロシア軍の攻撃を受けた。9月7日の夜にクルコヴィエツキは降伏したが、ワルシャワはまだ持ちこたえていた。クルコヴィエツキはすぐに退けられ、ボナヴェントゥラ・ニェモヨフスキが新たなポーランド政府の最高責任者となった。軍と政府はヴィスワ川の畔におかれたモドリン要塞(ロシアがノヴォ=ゲオルギエフスクと改称していた)に逃げ込み、その後ポロツクに撤退した。ジローラモ・ラモリーノ麾下のポーランド精鋭部隊がオーストリア領ガリツィアを通過後に降伏し、主力軍への合流が不可能になったというニュースがもたらされると、政府は方針を変える必要に迫られた。もはや戦争の継続が不可能なのは明らかだった。 1831年10月5日、2万人のポーランド軍の残党が、ロシアに屈伏するよりはましだと判断し、プロイセン国境を通過してブロドニツァで降伏した。ストルィイェンスキという名の大佐ただ一人が、特別の優遇を期待してロシアに降伏した。 ドンブロフスキのような前世代の将軍の例にならい、ユゼフ・ベム将軍もプロイセンとガリツィアでポーランド軍を立て直してフランスに率いて行こうとしたが、プロイセンはベムの計画を邪魔した。これによりプロイセンに逃げたポーランド軍は50人ないし100人単位でドイツ中の様々な地域を放浪せざるを得なくなったが、プロイセン中央政府の意向とは裏腹に、彼らが通過したドイツの諸国の各地で現地の市民による熱狂的な歓迎を受けることとなった。(これらのポーランド人将兵のなかには、のちに世界最高の時計製造メーカー「パテック・フィリップ」を創業することになるアントーニ・パテックやフランチシェック・チャペックがいた。特にパテックはベム将軍直々の命によりポーランド殿軍の集結地点の主任を務めていた)。ザクセン王アントン、ザクセン=ヴァイマル大公妃、ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンストら何人かのドイツ君主たちは、この騒乱を支持してさえいた。しかしドイツ中で設立されたポーランド問題に関する委員会は、ロシアの強い圧力で全て閉鎖することを余儀なくされた。
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