ロシア・ポーランド戦争とは? わかりやすく解説

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ポーランド・ロシア戦争

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/01 09:53 UTC 版)

ポーランド・ロシア戦争(ポーランド・ロシアせんそう)は、ポーランドロシアの間で戦われた諸戦争の一覧。




「ポーランド・ロシア戦争」の続きの解説一覧

ロシア・ポーランド戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:40 UTC 版)

11月蜂起」の記事における「ロシア・ポーランド戦争」の解説

リトアニア主戦場にしようというポーランド側構想実現させるのが遅すぎた。数日後陸軍元帥ハンス・カール・フォン・ディービッチュ率い115000ロシア軍精鋭ポーランド国境通過した最初大規模な戦い1831年2月14日ウツク近郊のストチェク起きた。このストチェクの戦いで准将ユゼフ・ドヴェルニツキ麾下ポーランド騎兵隊は敵将テーオドル・ガイスマル率いロシア部隊打ち負かした。しかしこの勝利多く犠牲出して勝ち取られたもので、さらにロシアワルシャワへの進軍押しとどめることは出来なかった。ドブレ、ヴァヴェル、ビャウォウォンカでの戦いは、両軍とも決定的な勝利を得られなかった。 ポーランド軍首都防衛のためヴィスワ川右岸集結した2月25日、およそ4万人ポーランド軍分隊ワルシャワの東で6ロシア軍衝突し、オルシンカ・グロホフスカの戦い始まった両軍2日近く激戦の末に多く犠牲者出して双方とも撤退した7000人のポーランド兵が戦死したが、ロシア軍側の戦死者はおそらくさらに多かった。ディービッチュはシェドルツェへの撤退余儀なくされ、ポーランド軍ワルシャワ防衛成功した。 フウォピツキは一連の戦いで勇猛さ発揮したものの、オルシンカの戦いで負傷してしまい、司令官地位をヤン・スクシネツキに譲った。スクシネツキはフウォピツキと同様、ナポレオンの下で武功立てて名声得た人物で、やはりコンスタンチン大公煙たがられ退役していた。スクシネツキもやはりロシアとの戦争無益確信していたものの、軍を率いてグロホフの戦い勝利導いた無能決断力のないミハウ・ゲデオン・ラジヴィウ独裁官を退くと、スクシネツキが後継者とされた。彼はロシア軍司令官との交渉によって戦争を終わらせようとし、ポーランド有利な形で外国調停出てくることを望んでいた。 ポーランドの自由回復悲願ヨーロッパ中から大きな共感得たパリではラファイエット侯爵主催ポーランド熱狂的に支持する集会開かれたアメリカ合衆国ではポーランド独立大義のため、募金集められた。しかしフランス政府イギリス政府はこれを快く思わなかった。ルイ・フィリップ自身新政権ヨーロッパ諸国正統政府として認められるとばかり気にしており、パーマストン卿は親ロシア派知られていた。イギリスはこの事件フランス革命精神の再覚醒につながるのを恐れたし、ロシア弱体化するのを望まなかった。パーマストン述べている、「ヨーロッパ秩序という大義のために間もなくロシア国際貢献を必要とするだろう、そしてポーランドフランス同盟を結び、フランス領ヴィスワになってしまうのは避けねばならない」。オーストリアとプロイセンロシア好意的な形での中立選択した。2国は自らの領有するポーランド地域封鎖し一切軍需品立憲王国内に持ちませないようにした。 こうした状況下で、ロシアとの戦争には暗く不安な見通しが立ち始めたポーランド人たちは必死に戦いヴォウィンヴォルィーニ)、ポドレポジーリャ)、ジェマイティヤリトアニア反乱駆り立てようとした。若き伯爵夫人エミリア・プラテル数人将軍たちが起こしたリトアニアでの蜂起除けばこうしたポーランド・リトアニア共和国領の辺境地域でのゲリラ戦大した効果をもたず、ロシア地域活力殺ぐ機会いたずらに与えただけになった中でもロシア軍悪名高くしたのはリトアニアのオシュミャナ(アシミャヌィ)という小都市での住民対す虐殺だった。一方ポーランドにはミハイル・パヴロヴィチ大公率いられ新たなロシア軍到着したが、ポーランド人何度も敗北していた。しかし恒常的な戦争と、8000人のポーランド兵が命を落としたオストロウェンカ戦いのような血腥い戦闘繰り返され結果ポーランド軍かなりの消耗見せ始めた将軍たちの失策相次ぐ交替辞職外国調停を望む総司令官やる気のなさなどが、軍隊の間の絶望感をさらに助長した。 最も急進的な民主派は、臨時政府内の混乱結果生じた決断力の不足のみならず臨時政府農地改革消極的なことや農民土地保有認めないことを批判し始めた。しかしセイムは、ロシアとの戦争ヨーロッパ諸国社会的な革命」だと見なされることを恐れ急進派への譲歩を引きのばしてこの問題棚上げにしていたのであるこのため当初烈しかった農民たちの戦争へ熱狂醒めてゆき、国民政府消極性が露呈しはじめた。 この時期ロシア軍では戦病死したディービッチュに代わってイヴァン・パスケヴィチ将軍指揮任されワルシャワ包囲取りかかった。スクシネツキはロシア軍結集止めることに失敗しセイムは彼を総司令官から罷免してヘンリク・デンビンスキ将軍一時的に総指揮を執らせるよう求め市民要求呑んだ状況はすっかり様変わりしていた。暴動発生し政府混乱来していた。ヤン・クルコヴィエツキ伯爵新たに統治評議会首班となった。彼はポーランドの軍事勝利をほとんど信じていなかったが、この熱狂状態を鎮めればより有利な条件戦争終わらせることが出来ると考えていた。 ユゼフ・ソヴィンスキ将軍決死防衛空しくワルシャワ郊外ユダヤ人自治都市ヴォーラが9月6日にパスケヴィチの手落ちた翌日ワルシャワ防衛軍の第2戦線ロシア軍の攻撃受けた9月7日夜にクルコヴィエツキは降伏したが、ワルシャワはまだ持ちこたえていた。クルコヴィエツキはすぐに退けられ、ボナヴェントゥラ・ニェモヨフスキが新たなポーランド政府最高責任者となった。軍と政府ヴィスワ川の畔におかれたモドリン要塞ロシアノヴォ=ゲオルギエフスクと改称していた)に逃げ込みその後ポロツク撤退した。ジローラモ・ラモリーノ麾下ポーランド精鋭部隊オーストリアガリツィア通過後に降伏し主力軍への合流不可能になったというニュースもたらされると、政府方針変える必要に迫られた。もはや戦争の継続不可能なのは明らかだった1831年10月5日2万人のポーランド軍残党が、ロシア屈伏するよりはましだと判断しプロイセン国境を通過してブロドニツァで降伏した。ストルィイェンスキという名の大佐ただ一人が、特別の優遇期待してロシア降伏した。 ドンブロフスキのような前世代将軍の例にならい、ユゼフ・ベム将軍プロイセンガリツィアポーランド軍立て直してフランス率いて行こうとしたが、プロイセンベム計画邪魔した。これによりプロイセン逃げたポーランド軍50人ないし100単位ドイツ中の様々な地域放浪せざるを得なくなったが、プロイセン中央政府意向とは裏腹に、彼らが通過したドイツ諸国各地現地市民による熱狂的な歓迎を受けることとなった。(これらのポーランド人将兵なかには、のちに世界最高の時計製造メーカーパテック・フィリップ」を創業することになるアントーニ・パテックやフランチシェック・チャペックがいた。特にパテックベム将軍直々の命によりポーランド殿軍集結地点主任務めていた)。ザクセン王アントンザクセン=ヴァイマル大公妃ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト何人かのドイツ君主たちは、この騒乱支持してさえいた。しかしドイツ中で設立されポーランド問題に関する委員会は、ロシアの強い圧力全て閉鎖することを余儀なくされた。

※この「ロシア・ポーランド戦争」の解説は、「11月蜂起」の解説の一部です。
「ロシア・ポーランド戦争」を含む「11月蜂起」の記事については、「11月蜂起」の概要を参照ください。

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