共和国への侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 15:46 UTC 版)
「ロシア・ポーランド戦争 (1654年-1667年)」の記事における「共和国への侵攻」の解説
1654年7月、4万1000人のロシア軍(名目上はアレクセイが率いていたが、実際にはヤコフ・チェルカッスキー公、ニキータ・オドエフスキー公およびアンドレイ・ホヴァンスキー公が指揮していた)は、国境地帯にあるベールイとドロゴブージの要塞を奪取し、スモレンスクの包囲に取りかかった。 スモレンスクにおける陣地は、すぐ西のオルシャに駐屯していたリトアニア大ヘトマンのヤヌシュ・ラジヴィウ公が率いる1万人の軍隊の進軍に脅かされたが、チェルカッスキーはシクロウ近郊でラジヴィウを破った。3か月の包囲ののち、20年前のロシア・ポーランド戦争の舞台となった難攻の要塞スモレンスクは、9月23日に降伏した。 一方、アレクセイ・トルベツコイ公はロシア軍の南翼を率いてブリャンスクからウクライナへと向かった。ドニエプル川とベレジナ川に挟まれた地域をすぐに通過し、トルベツコイはムシチスラウとロスラヴリを支配下においてウクライナの同盟軍と共同でホメリを占領した。北翼軍は、フョードル・シェレメーチェフに率いられてプスコフを出発し、ネヴェリ(7月1日)、ポラツク(7月17日)、ヴィチェプスク(11月17日)などのリトアニアの諸都市を包囲した。ポーランド領リヴォニアにもツァーリの軍勢が大挙して押し寄せ、ルザとレーゼクネで態勢を立て直した。同時期、フメリニツキーとロシアの将軍ヴァシーリー・ブトゥルリンの連合軍は、ヴォルィーニを攻撃していた。2人の司令官は何度も衝突していたが、両軍は年末までにオストロフとリウネを占領した。
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