ポーランド領リヴォニア(インフランティ県)(1629-1772)
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「ラトビアの歴史」の記事における「ポーランド領リヴォニア(インフランティ県)(1629-1772)」の解説
リヴォニア戦争は、バルト海の覇権争いとも深く関わっていた。1584年にイヴァン4世が没したことで、ロシアの勢力が抑止されると、次の覇権争いは、スウェーデン王国とポーランド・リトアニア共和国で行われることとなった。「権力の真空地帯」となったリヴォニアは、その格好の地域となった。共和国はスウェーデンとの戦争でリヴォニアの大半をスウェーデン王グスタフ2世によって奪われたが、共和国のシュラフタであり、1605年のキルホルムの戦いに参加したアレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキが残るラトガレ(インフランティ)を巡る戦いで、1621年から1628年までのリクスナ、クシシュボルク、ディナブルクなどの戦闘で勝利し、スウェーデンによるリヴォニア全土の征服を阻止した。1621年にインフランティ県(英語版)となり、1629年の休戦協定により、インフランティ県とスウェーデン領リヴォニアは正式に分割され、インフランティ県は共和国の直接統治下となった。この地域は、行政上リトアニア人とポーランド人によって統治され、宗教改革に対する対抗宗教改革が行われ、この地域の住民はカトリックとなり、貴族はポーランド化した。この状態は18世紀まで続いたが、1772年の第一次ポーランド分割によってロシア帝国に編入された。 1660年のスウェーデンとのオリヴァ条約によって、スウェーデンとの関係は清算された。以降、スウェーデン領リヴォニアとの繋がりは完全に絶たれることとなり、共和国自体は、1648年から1667年までの「大洪水時代」によって黄金時代に幕を閉じることとなった。1699年に共和国の君主アウグスト2世による個人的な野心による北方同盟への参加は、結果的に無意味なものとなり、共和国の威信を深く傷付けただけに終わった。大北方戦争での1720年のストックホルム条約では、1660年のオリヴァ条約の更新にのみに止まった。
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