ポーランド領リヴォニアとは? わかりやすく解説

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ポーランド領リヴォニア(インフランティ県)(1629-1772)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/04 00:22 UTC 版)

ラトビアの歴史」の記事における「ポーランド領リヴォニア(インフランティ県)(1629-1772)」の解説

リヴォニア戦争は、バルト海覇権争いとも深く関わっていた。1584年イヴァン4世没したことで、ロシア勢力抑止されると、次の覇権争いは、スウェーデン王国ポーランド・リトアニア共和国行われることとなった。「権力の真空地帯となったリヴォニアは、その格好地域となった共和国スウェーデンとの戦争リヴォニア大半スウェーデン王グスタフ2世によって奪われたが、共和国シュラフタであり、1605年のキルホルムの戦い参加したアレクサンデル・コルヴィン・ゴシェフスキが残るラトガレインフランティ)を巡る戦いで1621年から1628年までのリクスナ、クシシュボルク、ディナブルクなどの戦闘勝利しスウェーデンによるリヴォニア全土征服阻止した1621年インフランティ県(英語版)となり、1629年休戦協定により、インフランティ県とスウェーデンリヴォニア正式に分割されインフランティ県は共和国直接統治となった。この地域は、行政リトアニア人ポーランド人によって統治され宗教改革対す対抗宗教改革が行われ、この地域住民カトリックとなり、貴族ポーランド化した。この状態は18世紀まで続いたが、1772年第一次ポーランド分割によってロシア帝国編入された。 1660年スウェーデンとのオリヴァ条約によって、スウェーデンとの関係清算された。以降スウェーデンリヴォニアとの繋がりは完全に絶たれることとなり、共和国自体は、1648年から1667年までの「大洪水時代」によって黄金時代幕を閉じることとなった1699年共和国君主アウグスト2世による個人的な野心による北方同盟への参加は、結果的に無意味なものとなり、共和国威信深く傷付けただけに終わった大北方戦争での1720年ストックホルム条約では、1660年オリヴァ条約更新にのみに止まった

※この「ポーランド領リヴォニア(インフランティ県)(1629-1772)」の解説は、「ラトビアの歴史」の解説の一部です。
「ポーランド領リヴォニア(インフランティ県)(1629-1772)」を含む「ラトビアの歴史」の記事については、「ラトビアの歴史」の概要を参照ください。

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