ポーランド領の併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:08 UTC 版)
「ヴァルテラント帝国大管区」の記事における「ポーランド領の併合」の解説
ポーランド侵攻の終結以前、すでに1939年9月にはポーランド西部にドイツの「ポーゼン軍事地区(Militärbezirk Posen)」が設置された。これはポーランドの西部の県の全部または一部を含むものであった。同地区の境界は、北西部、西部、南西部で1937年/39年のドイツ国境に接し、それぞれプロイセン邦のポンメルン州(ドイツ語版)、ブランデンブルク州(ドイツ語版)、シュレージエン州(ドイツ語版)に当たる。また北部では大部分がノテチ川(ドイツ語名:ネッツェ川)、またヴィスワ川(ドイツ語名:ヴァイクセル川)中流となっていた。東部では、ヴィスワ川の西方、ウッチ付近を過ぎてシュレージエンとの境界に接していた。ポーゼンの民政長官(ドイツ語版)には、かつて自由都市ダンツィヒ市長(ドイツ語版)(Senatspräsident)を務め、ナチ党員であったアルトゥール・グライザーが任命された。 ポーランド征服後に1939年10月26日付でポーゼン軍事地区はドイツ国に編入されたが、プロイセン邦の新たな州(Provinz)としてではなく、境界はそのままに「ポーゼン帝国大管区」としてであり、行政の拠点はポーゼンに置かれた。国家代理官(Reichsstatthalter) にはこれまでの民政長官であったアルトゥール・グライザーが任命された。 新設の総督府(Generalgouvernement)との境界は当初不確定であったが、1939年11月9日、ウッチ(当時はドイツ語のロッチュ(Lodsch)とされた)の工業地帯を編入することで東方に移り、1939年11月20日に最終的に修正、確定した。境界はさらに東方へ移すことが検討されたが、戦時中は延期されたため実現することはなかった。 1940年1月29日から、帝国大管区の名称は「ヴァルテラント」とされた。
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