ポーランド遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 10:00 UTC 版)
オスマン2世が次に企図したのは、ポーランド遠征であった。黒海北岸には、コサックと呼ばれる自由民が居住しており、ときおり黒海を船で南下しアナトリア北岸を略奪していた。さらにはボスポラス海峡に侵入してイスタンブール郊外を襲撃することもあった。この忌まわしいコサックを背後からポーランドが支援しているとして、1621年、オスマン2世はポーランドへの親征を宣言したのである。親征の勝利によって自らの権威を高めるのも、彼の計画のうちであっただろう。ヨーロッパ側の史料では、バルト海進出を狙ってたとするものもある。 オスマン2世は出陣に先立ち、反乱者に担がれる恐れのある弟メフメトを処刑している。この処刑にイスラム長老エサトは反対したが、オスマン2世は、イスラム長老に次ぐ帝国第2位のウラマーであるバルカンの軍法官より処刑を是とする法意見書を得て、後の混乱が起こらないように気をつけた。 親征によってオスマン2世の権威を確立させるはずだったポーランド遠征は成果なくして終わった。特にホティンの戦いでポーランド・リトアニアに敗れた後は首都において凱旋を装ったがその効果は充分ではなかった。遠征より帰還後、生まれたばかりの息子のオメルを事故死で失った。ベネツィアの記録によると、オメルが誕生した祝いにオスマン2世は他の皇子たちと共に宮殿でポーランド遠征のショーを開いたという。しかしショーの最中にポーランド兵を演じている役者が誤って銃を乱射してしまいオメルに被弾したという。息子を失ってからオスマンは三日間沈黙したという。その後、有力政治家ペルデヴ・パシャの娘、そしてイスラム長老エサトの娘との正式な婚姻を結ぶことによる影響力拡大を図った。君主と自由身分のムスリム女性との正式な婚姻は久しく行われておらず、まして臣下の娘への求婚は前代未聞であったため、エサトは反対した。
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