スウェーデンとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 15:11 UTC 版)
「ヤン・カロル・ホトキェヴィチ」の記事における「スウェーデンとの戦争」の解説
翌1601年、スウェーデン・ポーランド戦争が始まるとヤン・ザモイスキについてリヴォニア公国へ侵攻、コクネセの戦いではリトアニア軍を率いて共和国軍の右翼を担い勝利を収めた。 1602年にザモイスキが療養のためポーランドに帰国するとリヴォニア戦線を任せられ、1603年4月にドルパット(現タルトゥ)を占領し、ザモイスキ不在に乗じて攻勢を仕掛けてきたスウェーデン軍を9月23日のヴェイゼンシュテインの戦いで破った。 そして1605年9月27日、ダウガヴァ川岸で行われたキルホルムの戦いで、ホトキェヴィチ率いる共和国軍4000人(殆どがフサリア重騎兵)は3倍のスウェーデン軍に完勝、彼の名声を不動のものとした。 この快挙に対し、ホトキェヴィチのもとにはローマ教皇パウルス5世、さらにはオスマン帝国のスルタンアフメト1世やサファヴィー朝のアッバース1世からも称賛の書簡が届けられた。 またこの戦いの直後、ホトキェヴィチはリトアニア大ヘトマンの地位を与えられた。 しかし、共和国のセイム(議会)は内部対立によって軍事予算の調達に失敗、キルホルムの戦いの戦果をふいにしてしまった。 マグナートが国王派と反国王派に分かれる中で、ホトキェヴィチは国王ジグムント3世側の派閥に残り、1606年から1607年にかけてゼブジドフスキの反乱の鎮圧にあたった。 1607年7月6日から7日にかけてのグズフの戦いでは国王軍の右翼を率いて勝利した後、リトアニア大公国のヤヌシュ・ラジヴィウの鎮圧にあたった。ヤヌシュ・ラジウィウは1608年に国王との交渉の末帰順した。 1609年にスウェーデンがリヴォニアに再侵攻するとホトキェヴィチも北方戦線に戻り、リガを解放してパルヌを再占領した。 さらには小艦船を急増してバルト海に進出し、サリスの海戦でスウェーデン海軍を破るにまで至った。
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