スウェーデンとデンマークの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/04 16:37 UTC 版)
「北方十字軍」の記事における「スウェーデンとデンマークの活動」の解説
デンマークとスウェーデンの両キリスト教王国もまた、バルト海東岸の征服を試みた。スウェーデンは1220年に、西エストニアに対して一度だけ侵略したが、失敗に終わった。デンマーク王ヴァルデマー2世は1219年に現在のタリンの近くに上陸し、砦を築いた。この砦は1220年と1223年にエストニア人によって包囲されたが持ちこたえた。北エストニア全体がデンマークの手中に収まった。 こうした侵略者に対し最後まで粘ったエストニアの郡は島嶼部郡のサーレマー島で、彼らの艦隊は、ドイツの十字軍との戦いの間にもデンマークとスウェーデンを襲撃したほどであった。1227年1月、サーレマー艦隊が凍った海に閉じ込められている間に、教皇使節のヴィルヘルム・フォン・モデナ(Wilhelm von Modena)指揮下の20,000人の屈強な陸軍が凍結した海を横断し、サーレマーを滅ぼした。エストニアの征服の後に、十字軍はダウガヴァ川の南と西に住んでいたラトビア民族、クロニアとセミガリアの地に侵攻した。 スウェーデンは、フィンランド南部を併合し、1240年には、ノヴゴロド公国にまで侵攻する。しかし同年にノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーによって敗れ、以後はスウェーデンの十字軍活動は収縮して行った。スウェーデン、ノヴゴロドは、現ロシア領のヴィボルグを境に1300年頃まで抗戦を続けていたが、スウェーデンは、その頃までに十字軍活動を中止した。その後、1323年に両国で「シュルッセルブルクの和議」が成立し、スウェーデンの十字軍は終了した。しかし両国の軍事的衝突は、十字軍が終了しても尚、15世紀半ばまで断続的に継続し、ノヴゴロド公国がモスクワ大公国に吸収され終えるまで継続した。
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