スウェーデンとの戦争と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 01:47 UTC 版)
「フレデリク3世 (デンマーク王)」の記事における「スウェーデンとの戦争と敗北」の解説
フレデリク3世は才能豊かであったが、それでも自身の、また自国の限界を完全に理解してはいなかった。1654年6月6日にスウェーデン王カール10世が即位すると、カール10世の性格と方針からして、彼が好戦的な王になることを感じ、これがデンマークにとって脅威となることを見抜いてはいたが、スウェーデンがまずどの方面から攻撃を開始するかは不明であった。 1656年、スウェーデンはポーランドのヴァーサ王朝を下し、王位継承問題を力で粉砕させた(大洪水時代)。これを見たオランダはスウェーデンへ宣戦布告を行った。カール10世によるポーランド侵略は、デンマークにとって潜在的な危険をはらんでいたものの、胸をなで下ろす出来事でもあった。その後、スウェーデンがポーランドで孤立し、追い立てられると、フレデリク3世は好機到来とばかりにスウェーデンと断交し、宣戦布告することを決意した。1657年2月23日に開催されたデンマーク議会(Rigsdag)は、相当額の軍事費を支出することを快く決定し、4月23日にフレデリク3世は枢密院の過半数からスウェーデン領ドイツを攻撃することへの同意を受けた。5月初旬に留保中であったスウェーデンとの交渉は打ち切られ、6月1日、フレデリク3世は宣戦布告書に署名した。ただし、これが実際に布告されることはなかった。 しかし、カール10世はドイツからユトランド半島に侵攻し、瞬く間に占領した。フレデリク3世にとって幸運だったのは、首都コペンハーゲンがユトランド半島ではなく対岸のシェラン島にあったことであったが、それは気休めにしかならなかった。1658年1月、北海を大寒波が襲い、ユトランド半島とシェラン島の間の海峡が氷結し、カール10世は1月から2月にかけて氷結したリレ海峡とストレ海峡を渡海し、敵軍の裏を完全にかいたのである。カール10世の行ったこの作戦は後年「氷上侵攻」と呼ばれる。前代未聞のこの作戦がデンマークに与えた衝撃は大きく、フレデリク3世は即座に戦意を喪失し、戦わずに降伏した。 1658年2月26日、コペンハーゲン西部のロスキレでロスキレ条約が結ばれた。カール10世はイングランドとフランスの説得に応じてデンマーク併合はあきらめたものの、フレデリク3世はスコーネ、トロンハイム地方、ボーンホルム島を割譲させられた。特にスコーネ地方の割譲はデンマークにとって痛手であった。これにより、デンマークの人口はスウェーデンの半分に減少させられることとなった。和議締結直後の3月3日から5日にかけて、フレデリク3世は征服者であるカール10世をフレデリクスボー城へ招待し、豪華な饗宴でもてなした。2人の王の親しさは、その後の平和を約束するかに見えた。
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