北方十字軍
北方十字軍
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詳細は「北方十字軍」を参照 バルト海沿岸には古来ヴェンド人や古プロイセン人、エストニア人、リトアニア人といった非キリスト教徒が居住していた。第2回十字軍が提唱された時、ドイツ北部の諸侯はエルサレムではなく隣接するこの地域への出兵を望んでいたため、1147年にこれらの北方異教徒への十字軍が認められ、ヴェンド十字軍が行われた。その約50年後、1193年に教皇クレメンス3世が再びバルト海沿岸の非キリスト教徒に十字軍を宣し、北方十字軍が開始された。当初はリヴォニア帯剣騎士団、やがてパレスチナよりイスラム教徒によって追放され北へと転進したドイツ騎士団によって毎年十字軍が行われ、この地方にドイツ人の東方植民が進んだ。
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北方十字軍
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キリスト教が広まる前のフィンランドでは北欧神話とは異なる多神教の信仰が存在した。西隣のスウェーデンは12世紀初めにキリスト教化し、スウェーデン王のエリク9世は1155年または1157年に北方十字軍を編成してトゥルクを中心とするフィンランド南西部を支配したとされる。しかし当時の史料は無く、短期間の武力行使とキリスト教の布教が行われたものの征服には至らなかったと推測されている。布教を行った司教ヘンリク(英語版)は農民に殺害され、エリク9世と共に称えられた(cf. スカンディナヴィアのキリスト教化#フィンランド)。 北欧で最初にキリスト教化したデンマークは1191年から1202年の間、フィンランドやエストニアを攻撃した。1219年、デンマークはエストニアの拠点を攻略してタリンに城を築いた。フィンランドのトゥルクを中心とする地域はスウェーデンの勢力に入り、13世紀初めにカトリックの司教座が設置された。 ハメーンリンナを中心とする地域は西のトゥルクからのカトリックと東のノヴゴロド公国からの東方正教会の両方から布教を受けた。スウェーデンとノヴゴロドの間では12世紀から争いが続き(スウェーデン・ノヴゴロド戦争)、ロシア側の記録によれば1240年にネヴァ川でノヴゴロドのアレクサンドルがネヴァ河畔の戦いでスウェーデンに勝利した。スウェーデンは約9年後に反撃し、13世紀中頃までにはハメーンリンナはスウェーデンの支配下におかれた。13世紀末にスウェーデンはカレリアの西部を獲得し、ヴィープリにヴィボルグ城(英語版)を建てた。1323年、オーレシェク講和条約(英語版)によってカレリア地峡を分割する形でノヴゴロドとの境界線が定められた。 領土の確定で一定の安定を見た後、フィンランド人の地主、僧侶、官僚たちの自治集会が成立し、1362年にスウェーデン国王を選出する8つの地区の1つと認められた。彼らはスウェーデン人に同化されたが、フィンランド人の文化は、農民の間に遺された。この時代にスウェーデンから移住したスウェーデン人たちは、スウェーデン系フィンランド人と呼ばれ、19世紀初頭まで続く「スウェーデン=フィンランド」を形成した。
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