王領プロイセン
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- 王領プロイセン
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Prusy Królewskie (ポーランド語)
Königliches Preußen (ドイツ語) -
← 1466年 - 1772年 →
(国旗) (国章) -
1575年のポーランド=リトアニア共和国のうちの当該領域
王領プロイセン(Royal Prussiaと記載)と
公領プロイセン(Ducal Prussiaと記載) -
首都 不明
![]() ![]() ブランデンブルクとプロイセンの歴史 |
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ノルトマルク 965年 - 983年 |
プルーセン 先史 - 13世紀 |
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リューティチ族 983年 - 12世紀 |
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ブランデンブルク辺境伯領 1157年 - 1618年(1806年) |
ドイツ騎士団国 1224年 - 1525年 |
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プロイセン公国 1525年 - 1618年(1701年) |
王領プロイセン 1454年 / 1466年 - 1772年 |
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ブランデンブルク=プロイセン 1618年 - 1701年 |
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プロイセン王国 1701年 - 1772年 |
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プロイセン王国 1772年 - 1918年 |
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プロイセン自由州 1918年 - 1947年 |
クライペダ地方 1920年 - 1939年 / 1945年 - 現在 |
回復領 1918年 / 1945年 - 現在 |
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ブランデンブルク州 1947年 - 1952年 / 1990年 - 現在 |
カリーニングラード州 1945年 - 現在 |
王領プロイセン(おうりょうプロイセン、ポーランド語: Prusy Królewskie、ドイツ語: Königliches Preußen)は、近世ヨーロッパに存在した地域区分であり、ポーランドおよびドイツの歴史的な支配領域の一つである。
概要
1466年に第二次トルンの和約によって成立した、ポーランド王を君主としたプロイセン(プロシア)地方の領域である。1569年にルブリン合同によってポーランド・リトアニア共和国が成立するとポーランド王国側の領土となり、1772年の第一次ポーランド分割によってプロイセン王国に併合されるまで存続した。
名称は似ているがプロイセン公国、プロイセン王国とは異なることに注意が必要である。王領プロイセンはあくまでポーランド王国の領土であった。一方、プロイセン公国はポーランド王国を宗主国とする従属国として成立し、1660年にポーランド王国から独立した領域であり、プロイセン王国はその後身である。

関連項目
王領プロイセン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:49 UTC 版)
1410年のグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)に続く15世紀前半の戦争を経てドイツ騎士団国家は弱体化した。1440年には都市、諸侯、(ドイツ騎士団に属さない)僧侶がドイツ騎士団に反発してプロイセン連合を結成しポーランド王国と同盟した。1466年の和睦(第二次トルンの和約)でドイツ騎士団は西プロイセンをポーランドに譲り、東プロイセンはポーランド国王の宗主権下に入り王領プロイセン(1466年 - 1772年)となった。プロイセン連合加盟の諸都市や諸侯の自治権が勝利者のポーランド王国によって保障された。 1558年、イヴァン4世がリヴォニア戦争を起こす。1561年、テッラ・マリアナが分割され、プロイセン公国の影響下から離脱。1618年にプロイセン公の後継者が絶えると、ブランデンブルクを領地とする同族のブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムント(在位1608-1619)がプロイセン公を兼ねる同君連合体制となり、ポーランド国王の宗主権下に東プロイセンを統治した。この頃からスウェーデンがバルト海に勢力を伸張し、東プロイセンにも影響を与え、1626年には、スウェーデン王グスタフ2世アドルフによって一時制圧された。
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