エルビング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 10:19 UTC 版)
1660年、スウェーデンの駐留軍がエルビングから撤退すると、ポーランド=リトアニア共和国はブロンベルク条約で定めた金額を支払わなかったにもかかわらずエルビングをブランデンブルク=プロイセンから奪取した。そのため、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムはロシア・ポーランド戦争でポーランドを支持せず、1656年にロシア・ツァーリ国と締結した中立協定を守るとした。ポーランドは1772年の第一次ポーランド分割までエルビングを維持したが、ポーランドの支配は1698年から1699年と1703年と2度中断した。1698年、ポーランド王アウグスト2世はプロイセン軍にエルビングの包囲と強襲を許してしまったが、ロシアがポーランドの借金への担保としてポーランドの戴冠宝器(英語版)の受け取りに同意すると仲介すると、プロイセン軍は翌年に撤退した。アウグスト2世が再び支払い不能に陥ると、エルビングは大北方戦争中の1703年に再占領されたが、今度はスウェーデン帝国の圧力により短期間で撤退している。
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