タンネンベルク‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【タンネンベルクの戦い】
タンネンベルクの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 04:37 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動タンネンベルクの戦い(タンネンベルクのたたかい)
- タンネンベルクの戦い (1410年) - 1410年7月15日、リトアニア大公国・ポーランド王国連合軍とドイツ騎士団の間で行われた戦闘。
- タンネンベルクの戦い (1914年) - 1914年8月に起きた、ドイツ帝国とロシア帝国の会戦。
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タンネンベルクの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:59 UTC 版)
「マックス・ホフマン」の記事における「タンネンベルクの戦い」の解説
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、東プロイセンの防御を担当する第8軍の参謀に任命された。シュリーフェン・プランに基づいて、まずは西部戦線に戦力を集中したドイツにとって、ロシア軍が予想以上に早く兵士の動員を完了させたことは大きな脅威であった。東プロイセンを防衛するために配置されたのは第8軍の1個軍のみであり、ロシアの第1軍および第2軍を相手にしなければならなくなった。 ロシア軍はグンビンネンの戦いにおいてドイツ軍に初戦での勝利を収め、プロイセンへの侵入を開始した。圧倒的な規模を誇るロシア軍に恐れをなした第8軍司令官マクシミリアン・フォン・プリトウィッツ(ドイツ語版)は、全部隊のヴィスワ川までの撤退を命令した。この方針によって東プロイセンが放棄されることを知ったドイツ参謀本部は、プリトウィッツを免職し、新たな司令官にパウル・フォン・ヒンデンブルクを、さらに参謀長としてエーリヒ・ルーデンドルフを任命した。 新たな司令部が到着するまでの間に、ホフマンは無電傍受から重要な事実をつかんでいた。東プロイセンの東と南から進撃しているロシアの2個軍は、互いにほとんど意思疎通を行っていなかったのである。この理由として、それぞれの軍の司令官アレクサンドル・サムソノフとパーヴェル・レンネンカンプが個人的に険悪な仲であり、日露戦争中には奉天駅前で殴り合いをしたこともあるなどという風説が存在する。 ホフマンは東方の第1軍を放置して、南から進撃するサムソノフ率いる第2軍を包囲する計画を立案した。この計画は司令部に到着したヒンデンブルクとルーデンドルフによって承認され、実行に移された。続いて発生したタンネンベルクの戦いにおいてロシア第2軍は壊滅的な打撃を受け、サムソノフは戦場で自殺した。 この戦いに勝利した第8軍は、東プロイセンに張り巡らされていた鉄道を利用して部隊を再配置し、第1軍を攻撃した。第一次マズーリ湖攻勢によってロシア第1軍はプロイセンから撤退し、開戦初頭のドイツの危機は間一髪の所で回避されることになった。
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タンネンベルクの戦いと同じ種類の言葉
戦いに関連する言葉 | ガウガメラの戦い コンバット タンネンベルクの戦い ツールポワチエの戦い テルモピレーの戦い |
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