タンネンベルク線
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「第23SS義勇装甲擲弾兵師団」の記事における「タンネンベルク線」の解説
1944年7月末、第IIISS装甲軍団がタンネベルク線へ後退する間、「ネーデルラント」旅団は軍団の後衛を勤めていた。この時、第48SS義勇装甲擲弾兵連隊の退路の確保を命じられた第54SS戦車猟兵大隊第1中隊は、所属の突撃砲数輛を東進させた。そのうちの1輛はオランダ人SS軍曹デルク=エルスコ・ブラインス(Derk-Elsko Bruins)が車長を勤める整備不良の3号突撃砲G型だったが、同車は移動途中にソビエト赤軍の戦車部隊と遭遇し、単独で8輛を撃破する戦果を挙げた。この功績によりブラインスSS軍曹には1944年8月23日付で騎士鉄十字章が授与され、彼はヘラルダス・モーイマンに続くオランダ人義勇兵第2の騎士鉄十字章受章者となった。 一方、タンネンベルク線におけるドイツ軍の防衛態勢が整ったことにより、「ネーデルラント」旅団は予備として戦線から引き抜かれ、再編成のために短期間の時間を与えられた。 1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が発生すると、旅団の将兵はショックと怒りを示し、いくつかの悔やみ状と総統への支持を旅団からヒトラーへ送った。旅団の大部分の将兵はNSBのファシズムイデオロギーをしっかりと保持していた。8月24日、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは旅団に手紙を送り、旅団の敢闘精神を賞賛した。 1944年8月中旬、第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」からエストニアへ派遣された戦闘団が「ネーデルラント」旅団の指揮下に置かれ、戦力の増強を行った。後にヒトラーがエストニア戦線のドイツ軍に撤退を許可した時、「ネーデルラント」旅団には1つの問題が存在していた。ドイツ軍がエストニアを放棄することに怒ったエストニア人将兵の一団が地下に潜ったのである。そのため、「ネーデルラント」旅団の指揮官ヴァーグナーはエストニアで想定されるあらゆるケースに対応するため、予備戦力の中隊を維持することを強いられた。しかし結局、数回の衝突は発生はしたものの、エストニア側との大規模な戦いは発生しなかった。
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