1944年夏の戦況
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「第28SS義勇擲弾兵師団」の記事における「1944年夏の戦況」の解説
1944年6月22日に始まったソビエト赤軍の夏季大攻勢(バグラチオン作戦)の後、ドイツ北方軍集団は後にクールラント・ポケットとして知られるラトビア北部のクールラント半島へ退却を始めた。さらに、それより以前の1944年2月から7月にかけてエストニアで繰り広げられたナルヴァの戦いは、7月末のナルヴァ市の放棄という形でドイツ軍の敗北に終わった。エストニアのドイツ軍部隊はナルヴァ市西方に設けられた防衛線「タンネンベルク線」(Tannenbergstellung)に後退し、西進するソビエト赤軍を迎え撃つ態勢に入った。かくして風雲急を告げるエストニア戦線には次々と増援部隊が投入され、再編制中の第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」にも1個大隊規模の戦闘団を派遣するよう命令が下った。 1944年7月21日、ポーランドのデンビツアにあるハイデラーガー(Heidelager)兵舎で「ヴァロニェン」旅団は1個戦闘団を緊急編制した。この戦闘団は歴戦の将校・下士官および、1944年4月~6月にバート・テルツSS士官学校(SS-Junkerschule Bad Tölz)を卒業した新人将校たちが基幹を成していたが、兵の大半以上は旅団に配属されたばかりの新兵であった。 当初、戦闘団の指揮はジュール・マチューSS大尉が執る予定であったが、彼はプートロス(Putlos)の軍学校で連隊指揮官としての教育を受けるため不在であった。そのため、戦闘団の指揮官には旅団の訓練担当将校を務めるジョルジュ・リュエルSS中尉が(新兵の訓練も兼ねて)任命された。 1944年7月25日、総員452名の将兵を擁する「リュエル」戦闘団(Kampfgruppe Ruelle)、またの名を「ヴァロニェン」戦闘団(Kampfgruppe Wallonien)はエストニア・ナルヴァ市西方45キロメートル地点のJohviへ到着し、フェリックス・シュタイナーSS大将の第3SS装甲軍団(III. (germanisches) SS-Panzerkorps)に配属された。7月28日に彼らはVokaにおいて新兵の基礎訓練を開始し、翌29日にはシュタイナーSS大将の閲兵を受けた。この時点での戦闘団は次に示すように、戦闘可能な2個中隊(第2、第4)と予備の1個中隊(第1)の3個中隊で構成されていた(第3中隊は未編制)。 「リュエル」戦闘団/「ヴァロニェン」戦闘団 (Kampfgruppe Ruelle / Kampfgruppe Wallonien)(1944年7月末~8月末) 戦闘団指揮官 ジョルジュ・リュエルSS中尉(SS-Ostuf. Georges Ruelle) 副官、本部中隊、通訳、通信、当直、従軍記者班 ドイツ人連絡将校 カール・シェーファーSS中尉(SS-Ostuf. Karl Schaefer) 第1野戦補充中隊 ジャック・カペルSS少尉(SS-Ustuf. Jacques Capelle) 第2行動中隊 マーク・ウィレムSS少尉(SS-Ustuf. Marc Willem) 第4重兵器中隊 マルセル・ボニヴェルSS中尉(SS-Ostuf. Marcel Bonniver)対戦車砲小隊 レオン・ジリスSS少尉(SS-Ustuf. Léon Gillis) ちなみに、レオン・デグレルは1944年7月14日に故郷のブイヨン(Bouillon)でレジスタンスに暗殺された弟(Edouard Degrelle)の葬儀のためにベルギーに戻っており、同戦闘団がエストニアへ派遣されたことを知らなかった。後にそのことを知ったデグレルは大急ぎで海路を伝ってエストニアへ向かい、8月8日にエストニア北部で訓練中の戦闘団に合流した。また、エストニア到着後、デグレルは直ちにシュタイナーSS大将と連絡を取った。この時のデグレルはコルスン包囲戦で大損害を被った「ヴァロニェン」旅団に必要な再編制と訓練のための時間を要求するようなことはせず、むしろワロン人戦闘団の戦闘能力をシュタイナーに保証した。
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