1944年前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 01:53 UTC 版)
1944年(昭和19年)1月上旬、三宅と択捉型海防艦対馬は第232船団(高雄~門司)護衛任務に従事した。1月10日、任務を完了し、三宅と対馬は呉で修理をおこなった。 1月20日から、三宅と択捉型海防艦干珠はヒ37船団(門司発、マニラ経由、シンガポール行)の護衛任務に従事した。当時、連合艦隊の第三艦隊(司令長官小沢治三郎海軍中将)所属の軽空母千歳(第三航空戦隊所属)と第16駆逐隊(天津風、雪風)は海上護衛総司令部麾下の第一海上護衛隊に臨時編入され、内地~シンガポール間の船団護衛任務に従事していた。だがヒ31船団護衛中の1月16日、駆逐艦天津風はアメリカ潜水艦レッドフィンの雷撃で大破、航行不能となる。1月20日、ヒ31船団部隊はシンガポールに到着した。帰路、ヒ31船団はヒ32船団に改称し、1月25日にシンガポールを出発する。三宅はヒ37船団部隊からのぞかれ、同船団は干珠護衛下でシンガポールへむかう。マニラに残った三宅は27日0730に同地を出発、ヒ32船団部隊(千歳、雪風、タンカー船団)に加わった。2月4日~5日にかけて、ヒ32船団部隊各艦は北九州や呉に戻った。 呉での補給、整備の後、三宅は門司へ移動した。2月16日、三宅はタンカー「黒潮丸」(東和汽船、10,518トン)、陸軍特殊船「玉津丸」(大阪商船、9,845トン)、特設運送船(給油船)「建川丸」(川崎汽船、10,090トン)等輸送船7隻で編成されたヒ45船団を、駆逐艦汐風と共に護衛して門司を出港した。2月19日夕刻、高雄へ向け北上中のヒ40船団部隊(海防艦占守、貨客船浅間丸、タンカー5隻)がアメリカ潜水艦ジャック(USS Jack, SS-259)の攻撃を受けたとの連絡が入る。汐風は船団から分離し、ヒ40船団の護衛に向かう。21日、ヒ45船団は高雄に到着し、三宅は高雄港外で対潜警戒を行う。夜、三宅は左営に移動。22日、船団は水雷艇隼の護衛で高雄を出港。それからまもなく、同日に左営を出港した三宅が合流する。その後、タンカー黒潮丸が機関故障を起こし、高雄に向かった。23日、玉津丸が隼と共に船団部隊から分離し、マニラへと向かう。同日、ヒ40船団の護衛を終えた汐風がヒ45船団部隊に合流する。27日、ヒ45船団部隊はシンガポールに到着した。 3月4日から5日にかけて、三宅はシンガポールに接近中のヒ47船団部隊(海防艦択捉、壱岐護衛)を臨時に護衛した。同船団は潜水艦ブルーフィッシュに襲撃され、4日には大峯山丸が沈没していた。3月11日、海防艦4隻(三宅、占守、壱岐、択捉)はヒ48船団を護衛してシンガポールを出発する。3月18日午前1時すぎ、アメリカ潜水艦(レイポン)の襲撃により北陸丸が被雷沈没、生存者を海防艦占守が収容した。ヒ48船団部隊は高雄に立ち寄ったあと、3月25日に門司へ帰投した。 詳細は「松輸送」および「マリアナ沖海戦」を参照 3月30日付で、三宅(第一海上護衛隊) と満珠(第二海上護衛隊)は連合艦隊付属となった。三宅は松輸送に投入される。駆逐艦卯月や夕凪などと共に、4月15日から木更津発サイパン島行き東松六号船団(指揮官は第七護衛船団司令官松山光治少将、旗艦「帆風」) の護衛に従事した。4月23日、東松六号船団部隊はサイパンに到着、揚陸作業をおこなった。4月27日、東松六号復航船団(三宅〈旗艦〉、天草、護衛艦艇5隻、加入船舶14隻)はサイパンを出発、5月4日東京湾に到着した。15日まで横須賀所在。17日より第3515船団部隊(旗艦「旗風」)の護衛任務に従事した。25日、サイパン島到着。 5月28日、海防艦三宅と干珠は、給油艦足摺と高崎を護衛してサイパンを出発する。5月30日、4隻(三宅、干珠、足摺、高崎)はヤップ島に立ち寄り、6月1日に出発する。第一機動艦隊司令長官小沢治三郎(第三艦隊司令長官)は第二補給部隊(満珠、干珠、三宅、海防艦22号、タンカー3隻)に対し、レイテ島南スリガオ海峡での待機を命じた。 その後、油槽船団に駆逐艦水無月とタンカー興川丸が合流する。6月5日朝、スールー海を航行中の油槽船団部隊(水無月、干珠、三宅、足摺、高崎、興川丸)を、アメリカ軍潜水艦パファーが襲撃する。足摺と高崎は撃沈された。沈没艦の生存者を救助した三宅と干珠は、タウイタウイ泊地へ移動した。つづいて三宅と干珠はタラカン島へ移動し、9日にタンカー2隻(雄鳳丸、満栄丸)を護衛して出発する。タラカン島経由で6月12日にバリクパパン着。到着直前の11日、第4駆逐隊と3隻(三宅、干珠、栄邦丸)は渾部隊(指揮官宇垣纏第一戦隊司令官)に編入された。 6月17日、あ号作戦にともない第一機動艦隊(司令長官小沢治三郎中将)の補給部隊 を護衛してバリクパパンを出発する。海戦敗北後の6月24日、ビサヤ諸島ギマラス着。雄鳳丸船団(雄鳳丸、万栄丸、栄邦丸) を護衛して6月26日にギマラスを離れる。ミンダナオ島西端サンボアンガ、タウイタウイ、クサンガン島、ボルネオ島ペル岬経由で、7月5日バリクパパン着。同地には第十六戦隊(司令官左近允尚正少将)麾下の軽巡洋艦大井と駆逐艦敷波が停泊していたが、翌6日に出港してジャワ島スラバヤにむかった。7月10日、三宅と干珠は給油艦鶴見ほかのタンカー船団を護衛して同地を出発する。7月16日、サンボアンガに到着したが、翌日には対潜掃蕩に駆り出される。7月18日、サンボアンガで船団が再編成された。三宅と干珠は雄鳳丸ほかを護衛し、マニラなどを経由して、8月4日六連島沖に到着した。
※この「1944年前半」の解説は、「三宅 (海防艦)」の解説の一部です。
「1944年前半」を含む「三宅 (海防艦)」の記事については、「三宅 (海防艦)」の概要を参照ください。
- 1944年前半のページへのリンク