第一戦隊司令官
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1944年(昭和19年)2月25日、第一戦隊(大和、武蔵)司令官。 4月26日 - 27日、第一機動艦隊旗艦/空母「大鳳」で行われた図上演習を、宇垣は部外者として見学。第一機動部隊に対し「生死の岐るゝ本圖演に於て、徒らに青軍に有利なる経過あるは指導部として注意すべき點なり」と苦言を呈している。5月5日の「大鳳」での図上演習では「全體を通じ見るにKdF司令部は手前味噌の感無き能はず。戦は一人角力に非ず。噴戒を要す」と怒っているが、栗田健男中将の第二艦隊研究会でも「決戦を前にして現實に如何なるかを決定し、其の訓練を積むべきに兎角「研究を要する」と云ふ事司令部も各艦も仲々多し。此の物と此の人を以て戦ひ而も勝たざるべからざる腹仲々に固め難きは通弊にして噴戒すべき處なり」という状態であり、最後には「やつて見れば案外甘く行くものなるべし」「此の通實行出来たら上出来此の上無しと思ふ」と諦めかけている。古村啓蔵少将(当時、第一機動部隊参謀長)によれば、5月27日午後11時に空母「大鳳」を来艦し第一機動部隊長官・小沢治三郎に激しく意見する宇垣を目撃しており、「今また第一戦隊司令官としてビアク島のことが心配でたまらず、この戦勢を何とかして挽回しようとあせっているように見受けられた」と回想している。 5月の第三次渾作戦、6月のあ号作戦、に従事。 10月のレイテ沖海戦では、元々艦隊による上陸地点の突入と船団攻撃には反対だったようで、9月20日に偶々大和に来艦した小柳冨次参謀長と山本祐二参謀と談笑した際、自身の考えとして「上陸船団攻撃に全力を入れるよりも、第一遊撃部隊は敵機動部隊攻撃に全力を入れるべき」と話したことを日誌「戦藻録」に書き残している。作戦中も10月25日のサマール沖海戦で、敵空母の追撃中止命令を出した栗田長官の決断を「何を思ったのか」と不満であったかのように書き残してもいる。その後の艦隊の反転北上の際は、宇垣は怒っていたという証言もあり、その内容も怒鳴っていたというものから、不機嫌そうであったというものまで多くある。部下で第一戦隊の航空参謀(兼大和飛行長)だった伊藤敦夫少佐は「長官は反転時は艦橋におらず、反転後に来られた際に不審に思い『どこに向かっているのか』とお尋ねになられた」とも証言している。
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